富山平野を一望する揚見展望台。
揚見展望台の特徴
富山平野を一望できる高台にあり、見晴らしが素晴らしいです。
周囲には中世城館跡や信仰遺産が点在し、歴史を感じられます。
鳥瞰できる立地で、地域の文化財を楽しむことができます。
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景色がよかった。
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| 名前 |
揚見展望台 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
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揚見展望台は、富山平野を一望する高台に設けられた見晴らしの良い地点で、直接の史跡指定はないが、周辺に数多くの中世城館跡や信仰遺産を擁し、地域の歴史を鳥瞰できる立地にある。上市町には、戦国期に越中東部を支配した土肥氏の本拠地・弓庄城があった。同氏は源頼朝に仕えた土肥実平を祖と伝え、越中に土着して新川郡一帯を治めた。弓庄城は、当初滑川の堀江城を拠点とした土肥氏が、16世紀初頭に上市町館地区へ本拠を移すにあたって築いたとされる。井見荘と呼ばれた荘園を土肥氏が「弓庄」と改めたとの伝承もある。越後の上杉謙信の庇護下で一時繁栄したが、謙信死後に織田方の佐々成政の攻撃を受け、天正11年(1583)に弓庄城を明け渡し、土肥氏は越後へ退去したという。この弓庄城の防衛を補強する形で設けられたのが、揚見展望台からも望まれる稲村城である。上市川ダムの北に位置する山上に構えられ、戦国期には堀江城の詰城として機能した。城跡には曲輪や堀切、井戸跡が残るが、この井戸には2km離れた眼目山立山寺へと通じる抜け穴があると伝えられ、戦乱の緊張を今に伝える。また、眼目山立山寺は、室町時代の建徳元年(1370)に曹洞宗の僧・大徹宗令が開いたとされ、木こりに扮した立山権現との邂逅、そして寺材が川から流れ着いたという開創伝説が残る。参道にはトガの巨木が連なり、県の天然記念物に指定されている。稲村城と立山寺の間に伝承が交差するように、城と寺の空間的な近接は、信仰と防衛の両面での連関を示唆している。もう一つの宗教的中心が、大岩山日石寺である。神亀2年(725)、名僧行基が大岩の岩壁に不動明王を刻んだと伝えられるこの寺は、北陸有数の不動霊場として知られる。奥壁に彫られた不動明王磨崖仏は高さ3.46mを測り、国の重要文化財に指定されている。寺周辺には、「継子滝」と呼ばれる滝にまつわる不動明王の霊験譚が残り、江戸時代のある日、継母に滝壺へ捨てられた子が、不動の加護により助かったという。町の神社にも歴史が刻まれる。森尻の神度神社は、奈良時代の大宝2年(702)に越中国司・佐伯有若が創建したと伝えられ、社名は「神度の剣」を祀ることに由来する。延喜式内社に比定されており、杉の神木には、夢の中で神が去ると告げる「お告げ伝承」が語り継がれている。こうした夢のお告げを複数人が同時に見たという伝承は、神への畏敬と共同体の信仰意識を示す例として貴重である。近世に入ると、上市町は鉱山開発の拠点として注目されるようになる。中でも下田地区にあった下田金山は、天正2年(1574)に発見され、江戸時代には越中七金山の一つとして加賀藩の御留山とされていた。元和年間には採金高が年間150両に達したとされ、銀・銅も産出された。鉱山の規模は縮小したものの、明治以降も断続的に採掘が続けられた。周囲には坑口跡や選鉱場跡が残り、往時の隆盛を偲ばせる。近代には、明治23年(1890)に上市町千石で白萩隕鉄が発見され、地質学的に注目されたほか、明治~大正期には鉄道が敷設され、立山信仰の玄関口としての機能も強まった。昭和期には昭和天皇の行幸もあり、自然と歴史の結節点としての性格を今に伝える。揚見展望台からは、こうした歴史の舞台となった地域一帯が俯瞰できる。展望台自体は近年整備された構造物であるが、見渡せば戦国の山城跡、信仰の寺社、鉱山遺跡といった史跡が折り重なり、上市町が単なる自然景勝地ではなく、信仰・武士・民衆の営みが交錯した歴史の結節点であることが理解できる。展望台を起点に史跡めぐりをするなら、弓の里歴史文化館で出土遺物を見てから弓庄城跡へ歩を進めるのがよい。山裾に広がる上市の町並みは、風景の中に過去の記憶を織り込んでいる。