永井宿で感じる歴史の風情。
永井宿本陣址の特徴
江戸時代の参勤交代を思わせる本陣跡が魅力的です。
古い宿場町の風情が感じられるひっそりとした空間です。
寂れた中にも温かさが残る旧三国街道の散策スポットです。
週末の昼下がり旧三国街道の永井宿を散策、ひっそりとした宿場が残り、本陣跡が江戸時代の参勤交代を思わせる、お店や飲食店などないがどこか温かいそんな旧街道の宿場町でした。
宿場町の中にある本陣跡ですが写真、休憩場所と石碑があるのみで寂れた感じです。宿場町も誰も人がいませんでした。
建物は現存していませんが、当時の風情を感じることはできますよ!
今は簡単な見取り図と写真が展示されているのと石碑以外はほとんど何もありませんでした。
| 名前 |
永井宿本陣址 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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永井集落は鎌倉時代初期の寛治年間(1089~1092年)に奥州阿倍家家臣、長井左門兼政が開いた村で当初は長井村と呼ばれたが後に永井となったとも云われています(安倍頼時の家臣長井左門兼政が重篤となり当地で病死した事から兼政の家臣が長井という地名を付けたとの説もあります)。 戦国時代に春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信が関東侵攻の為、三国峠を開削すると次第に重要性を帯びるようになりました。永井宿の大欅(推定樹齢450年、目通り幹周4.7m)は、永井宿「泉屋」の初代笛木九助が永禄2年(1559)に家屋を建てた際に屋敷の鎮守である稲荷社の御神木として植えたと伝えられている事から、少なくとも上杉謙信が三国峠を開削した前後から永井集落は宿場町的な存在だった事が窺えます。江戸時代に入り三国街道が本格的に開削されると宿場町として永井宿が整備、本陣1軒(笛木屋)、脇本陣1軒(つるや)、家屋25軒、元禄2年(1689)には米問屋場も設置され飛躍的に発展します。三国街道の宿場町で難所で街道の名称の由来にもなった三国峠を控えている事から多くの旅人や商人などが利用し、特に越後で産出された米が上野に搬出する場合は米問屋場として永井宿で吟味された上で売買された事から商業的にも重要視されました。 宿場の大部分の住民は半農半宿又は半農半商で、今でいう専業農家の家は少なく何らかの形で宿場に関わって生活をいて、特に本陣職を担った笛木家(跡地は、みなかみ町指定史跡)は問屋を兼任した他、豪商という一面もあり、越後、上野両国の物資が行き来する中、中継ぎする事で莫大な利益を得て広大な屋敷を持っていたそうです。 特に本陣は幕府が認めた公式な施設だった為、格式が高く参勤交代で三国街道を経路とした長岡藩(藩庁:長岡城・新潟県長岡市)、村松藩(藩庁:村松城・長岡県五泉市)、与板藩(藩庁:与板陣屋※幕末は与板城・新潟県長岡市与板町)などの諸大名や佐渡奉行、新潟奉行などの上役が利用したとされます。 現在の町並みは万延元年(1860)の火災以降に再建されたもので、建て替えが進み本陣など主要な建物は取り壊されていますが、「大丸屋」や「和泉屋」など大型の旅籠建築が数棟残され、宿場町らしい町並みを僅かに残しています。又、永井宿から三国峠まで約7キロが「三国路自然歩道」として整備されています。