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| 名前 |
樋口半六翁銅像趾 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
かつて山梨県では、富士川を利用した舟運が盛んでした。現在の富士川町(当時の鰍沢辺り)で舟運を取りまとめていた樋口半六氏は、山梨県の議員をつとめ、地域に貢献なさっていました。樋口半六氏は人望も厚く商売上手で先見の明があったようで、現在の身延線を引く案が上がった折りも、舟運に危機が及ぶからという反対も多かったなかで、樋口半六氏は賛成側となり、自分の利益より地域活性化を推進なさったようです。1914(大正3)年には横浜市太田町で株式会社日吉回漕店を創業。店舗の名前は「商売をするのに太閤になってはいけない。常に草履取りの気持ちで仕事に精を出しなさい。」という気持ちを込めて、太閤秀吉の幼名である日吉丸にちなみ、名付けられたそうです。その後、1935(昭和10)年に樋口半六翁銅像がこの地に建造されましたが、第二次世界対戦のとき銅像は資材として供給されてしまいました。1935(昭和38)年、樋口半六氏の次男で神奈川県にて川崎陸送を経営する樋口由恵氏を中心に、地域の方々や多数の協力者にて像は再建されました。そのため、樋口半六翁銅像趾、という名称になっているようです。増穂地区に古くから親しまれた飛川神社の南東の角に整地されています。