周辺のオススメ
スポンサードリンク
スポンサードリンク
スポンサードリンク
ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その126【首里末吉町2丁目】2021/04/18①場所(首里末吉町2-117 石段下付近)●末吉町民会館前の坂を上って、突き当たりの石段横に樋川がある。●この辺りは、西原間切・末吉村(ニシバルマギリ・シーシムラ)と呼ばれていた。②末吉西ヌカー(シーシイリヌカー)・末吉大樋川(シーシウフヒージャー)●急傾斜地(段丘崖)を奥行き約6m、幅約6mの平面形に掘り込んだ状態で、階段になっている通路とは、幅約1mの石垣で隔てられている。村井戸で、名称は集落の西側に位置することに由来すると云う。●井戸の形態地下水は段丘崖下に穿たれた奥行き約1.5mで、ヒョウタン型をした湧泉から流れ出、湧水口の脇には香炉が置かれている。湧水の前には,幅約6m、奥行き1mで、高さ1mの石垣で囲まれた貯水槽があり、コンクリート製の蓋で覆われている。●井戸の周囲は、合方積みの石垣となっている。湧泉内部も石組となっていることから、井戸を構築するに先立って、まず段丘崖を大きく掘り崩し、湧水箇所にヒョウタン型の石組を築いて湧泉を設けた。その後、曲線美が美しい合方積みで段丘崖を覆い、その前に貯水槽や洗い場などを設置したと考えられる。那覇市教育委員会(1986)によると、1985年に調査が行われた頃、日湧水量は23.4m3あったと云う。③末吉町●古くは、シーシ村、獅子村等と呼ばれ、畜産を営む村落で、首里の葬祭に携わる一面も有していた。18世紀頃から伝わる村落独特の獅子舞が伝承されており、琉球国王尚泰の冊封奉祝の宴において舞を披露した記録が残されている。現在でも旧暦8月の十五夜にノロ殿内で奉納の舞を舞う習慣があり、那覇市の無形文化財に指定されている。1954年までは首里市に属し、末吉町と呼ばれた。また、古くはシーシ村と称した。住居表示の首里末吉町は、近年まで3丁目までであったが、真嘉比、古島区画整備事業にて4丁目が新設され現在に至る。 戦前から在郷制限型の自治会が存在し、戦後ポツダム政令第15号が沖縄に適用されなか ったことによって残存した旧村落の字有地・共有財産である末吉公園を管理する必要から、自治会側がメンバーシップを厳しく制限している。●西原間切の西端部に位置し、北は浦添間切の沢岻村・経塚、南は真和志間切の真嘉比村、東は首里及び平良村に接し、村中南部を安謝川が西流する。村の北東部は屋取の大名。浦添から首里に向かう道が通っており、旅の安全を願って謡われていたヤラシイグワイナ(クェーナ)に「平良ふな」と「あだにが」が見える。浦添を経て首里に上る途中の地名として謡われたもの。絵図村帳・琉球国高究帳の真和志間切に「末吉村」とみえ、高究帳によると高頭75石余、うち田49石余・畠26石余。1670年頃までに西原間切に移管。1920(大正9)年西原村から首里区に編入され、末吉町となる。その際大名が分離し、大名町となる。---1880(明治13)年には戸数138、人口669。1903(明治36)年には戸数182(士族13・平民169)・人口881(士族72・平民809)。角川辞典 p182 (省略と抜粋)参照:沖縄島・首里城と周辺地域の古井戸参照:グダグタ(β)末吉参照:Wikipedia首里末吉町。