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ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その96 【那覇市首里金城町1丁目】2020/12/06①場所(首里金城町1-2 付近)●首里城内守礼門手前の交差点の角にある天界寺跡の敷地東側の道路沿い。●この辺りは真和志之平等(マージヌフィラ)・金城村(カナグシクムラ)であった。②井戸跡 那覇市指定文化財(平成5年)●このあたりの地盤は、琉球石灰岩の分厚い層が広がっているため、なかなか地下水を掘り当てることができませんでした。「球陽」によれば、1697年に天界寺の僧侶の了道が蔡応瑞(久米村の学者)に頼んで、場所を選び、掘ったところ、ようやく願いがかなって地下水を掘りあてることができたそうです。この井戸水は、水質もよく、日照りにもかれることがなかったため、寺院だけでなく、付近の住民にも利用されてきました。井戸の内部は ほぼフラスコ状になっており、岩盤を垂直に掘り下げながら、下へ向かって幅を広げ、水面の付近ではほぼ球形になっています。井戸口に接して、滑車を下げるための柱の跡があり、左右の石垣の上には、屋根をかけるための角柱形の石が残されています。③天界寺跡●琉球王国時代の臨済宗の寺院跡天界寺は、第一尚氏第六代国王尚泰久(ショウタイキュウ)が、景泰年間(1450~56年)に創建したとされる。山号は妙高山(ミョウコウザン)、開山は渓隠安潜禅師(ケイインアンセンゼンジ)。創建当初の伽藍(ガラン)は、寝室・方丈・東房・西房などで、尚徳王(ショウトクオウ・第一尚氏第七代国王)代の1466年に大宝殿が建立され、また、成化己丑(セイカキチュウ)(1469年)鐘銘の梵鐘も掛けられた。1576年、火災により焼失したが、順治(ジュンチ)から康煕(コウキ)年間にかけて、堂宇が建立され、再興された。天界寺松尾(ティンケージマーチュー)と呼ばれた東隣の松林を含む寺域は約1,080坪余であった。再興後は、尚泰久王・尚徳王の位牌のほか、第二尚氏の未婚の王子・王妃が祀られ、円覚寺・天王寺とともに尚家の菩提寺(三ヵ寺)の一つとなった。国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣での慣わしがあった。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後は、尚家の私寺となったが、後に払い下げられた。1913年(大正2)頃、跡地の北東隅に、首里(シュイ)・儀保(ジーブ)・真壁(マカベ)の3人の大阿母志良礼(ウフアンシタリ・王府の高級神女)の神殿を統合した「三殿内(ミトゥンチ)」が置かれ、信仰を集めた。天界寺松尾には、1886年(明治19)、首里小学校(後の首里第一尋常高等小学校)の校舎が建てられたが、1912年(明治45)に、校舎狭隘のため首里城内へ移転した。跡地は採石場となり、さらに、1915年(大正4)には、大正天皇即位祝賀を記念して、沖縄県師範学校の記念運動場が開設された。1945年(昭和20)の沖縄戦により、三殿内は消失し、天界寺の寺域跡は、住宅地となったが、1992年(平成4)の首里城復元に伴い整備され、道路及び首里城公園の一部(レストセンター・管理棟)となった。なお、1697年に掘られたという天界寺の井戸(那覇市指定文化財)が、現在も残されている。参照:沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫首里古地図参照:おきげい首里観光マップ王朝/首里参照:案内板参照:ハイホーの沖縄散歩 那覇地区天界寺跡と天界寺の井戸。