杜に囲まれた神秘の多伎神社。
多伎神社(今治)の特徴
鬱蒼とした杜に佇む、荘厳な神社の雰囲気が魅力です。
去年来訪した際には、蛍が飛ぶ光景を楽しむことができました。
川と古墳に囲まれ、自然の静けさを感じることができる場所です。
12月1日に木漏れ日あふれる小春日和に訪問しました。紅葉は一部色づき始めてましたが、まだまだ青い。想像してたよりコンパクトな神社でした。誰も居ない境内や裏山の古墳塚など ブラブラとホントにブラブラと心のままに歩きました。倒れかけた杉が懸命に枝を伸ばしていたり。根元がむき出しの木や 苔むした灯籠の悠久の時間。穏やかなこころ洗われる時間でした。来週あたり紅葉が真っ赤になりそうですその時訪れられると良いですが。
2022年11月現在、姫坂神社さんの兼務社で無くなったようで、姫坂神社ではここの御朱印はいただけません。
鬱蒼とした杜の中に佇む社はとても荘厳でした。御朱印は姫宮神社さんでいただきました。
自然に囲まれた雰囲気のいい神社。きれいに整備された小川?もすごいい。神社まわりの古墳の多さにもびっくり。
神秘な、一度は言って欲しい神社杉の力、山から流れてくる力には圧倒されるけど、心地よい。
良い神社でした😃
令和3年5月25日夜8時過ぎ、蛍を数匹見ることができました。
古墳郡も たのしめます、足元は注意が必要です。
多伎神社たきじんじゃ愛媛県今治市古谷甲807−2祭神多伎都比売命(タキツヒメ、宗像3神の一柱)多伎都比古命須佐之男命社頭掲示板に依れば崇神天皇の御代饒速日命六代の孫である伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を奉り初代斎宮になったというつまり瀧の宮ですから宗像の水神が祭祀されていますが基本的に物部氏の先祖を祀った神社と思われます。
| 名前 |
多伎神社(今治) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0898-56-2101 |
| HP | |
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
多伎神社(たきじんじゃ)。愛媛県今治市古谷乙。式内社(名神大)、旧県社。「瀧の宮(多伎宮)」とも。主祭神:多伎都比売命・多伎都比古命・須佐之男命。【関係氏族】秦氏の末裔という大仲氏。資料によると、創建年代は不詳。社伝によれば、崇神天皇の御代、饒速日命六代の孫である伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を奉り、初代斎宮になったという(社頭掲示板による)。社殿は頓田川の支流・多伎川の畔にあり、周囲には30基余りの古墳が群集する(県指定史跡「多伎神社古墳群」)。多伎川を遡った山頂近くに川上巌(かわかみのいわお)と呼ばれる磐座があり、奥の院とされる。雨乞いに霊験があると伝えられ、もとはこの磐座信仰に始まると考えられる。創祀年月は不詳。元亀二年には伊予国分寺の神名帳には「多伎不断大願大菩薩」と記され、江戸時代には、多伎宮、瀧宮、瀧宮牛頭天王などとも呼ばれた神社。社伝によれば、奥の院の磐座信仰を起源とする神社。現在、境外末社・磐座神社が鎮座している。祭神の多伎都比賣命と多伎都比古命について。一対の夫婦神のような名前だが、多伎都比賣命は、宗像三女神の一柱。多伎都比古命は、『出雲国風土記』記載の阿遅須枳高日子根の御子で、祖母が、宗像三女神の多紀理毘売命。ともに宗像系の神とも考えられるが世代が少し違う気がする。単純に、瀧を神格化して男女神に置き替えたもの、あるいは、多伎都比賣命の夫を想定して多伎都比古命の名を用いたものか。とあります。参考として、なにゆえ物部氏が多伎都比売を祀ったか。いや、それはあり得ません。多伎都比売は宗像家アタカタスの娘、三姉妹の次女で大国主・八千矛王に嫁いだ女性。多伎都比古は大国主の息子・味鍬高彦(あじすきたかひこ)の息子になります。つまり、どちらもガッチガチの出雲系。物部は崇神帝が計画した2度目の東征で出雲王国を滅ぼした側であり、出雲神を祖神を差し置いて掲げるなどはあり得ないのです。須佐之男は物部の太祖・徐福のことですから、後から当地にやってきて定住した物部族が由緒を書き換えたということでしょう。四国は古くから出雲領と言って差し支えないくらい、出雲王国と関係が深い土地でした。それで多伎都比売を祀る一族が当地に存在したのでしょう。しかしでは何故、定住した物部族が多伎都比売を消してスサノオを主祭神として祀らなかったのか。それは四国に、物部族と友好関係を築きながら、そうさせなかった一族がいたことを示しています。越智族です。多伎神社由緒の一説として、越智氏ゆかりの大山祇神社が海上の大三島に鎮座していたため、陸地での祭祀として多伎神社を祀ったと伝えられます。越智氏が多伎神社の祭祀に関して、一枚噛んでいることは十分に考えられます。もともと出雲族が守っていた聖地を、越智氏が守ったのではないか。大三島の越智系三島氏、その分家にあたるのでしょうか、摂津三島家は事代主に后を出しています。后の名は三島溝杙姫(みしまみぞくいひめ)、またの名を「活玉依姫」と言います。活玉依姫、太宰府竈門神社の祭神が玉依姫です。越智家は出雲王家や豊王家はもとより、大和・海部・物部・ヒボコ家など、各王家や豪族に后を出す家柄だったのではないかということです。ただし、通常の歴史でも古代史研究でも、越智家というのは目立つところがそうはありません。これは越智家は裏からひっそりと日本を牛耳るヤバい存在だったのではないか、という疑惑を抱かせます。もしくは越智家の存在を隠そうとする別の圧力が、古から存在していたか。ちなみに多伎神社、姫神が主祭神ですが、千木は出雲の縦削ぎとなっていました。とあります。