百済の王子、琳聖太子の魅力。
琳聖太子供養塔・大内重弘公、弘世公の墓の特徴
琳聖太子は百済の王族で、聖明王の第三王子です。
武寧王の孫にあたる琳聖太子の歴史的背景が魅力です。
史跡としての価値があり、探求心を刺激する場所です。
琳聖太子。百済の聖明王の第3王子といわれており、大内氏の始祖とされている人です。推古天皇19年(611 年)周防国佐波郡多々良に上陸し摂津の四天王寺で聖徳太子に会い、周防国大内県をたまわりました。陶の艫綱の森や深溝の住吉神社にも、琳聖太子が上陸したとの言い伝えがあります。本当はどこに上陸したのかな?1400年も前のこと。真相はいかに。大内重弘公。大内氏22代当主です。2度目の元寇弘安の役(1281年)の際、九州に渡り元軍と戦ったといわれています。(弘安の役に参戦したのは、20代当主弘貞とする資料もあります)重弘公の時代に、大内氏はだんだんと勢力を高めていきました。大内弘世公。大内氏24代当主です。南北朝時代、足利尊氏(北朝)に従い、その後南朝方になります。正平15年(1360年)ごろ、大内から山口に居館を移しました。山口はその後200年間、大内氏の政治経済の中心としてにぎわいました。八坂神社(京都の八坂神社を勧請)、古熊神社(京都の北野天満宮を勧請)を建立したのも弘世公です。山口に祇園祭や天神祭があるのも、弘世公のおかげです。また、かわいらしい大内人形も弘世公の時代に生まれました。京都より迎えた姫がさびしがるので、それをなぐさめるために人形御殿を作ったのが始まりといわれています。山口十境詩を読んだ明の趙秩(ちょうちつ)が山口を訪れたのも、弘世公の時代です。中国明の使節として倭寇の禁止を求めて来日しました。応安6年(1373年)のことです。
| 名前 |
琳聖太子供養塔・大内重弘公、弘世公の墓 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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琳聖太子は百済の国の王族、聖明王の第三王子、武寧王の孫と言われています。山口の守護大名大内氏の祖先と言われておりますが、琳聖太子自身、架空の人物と言われています。太子が大内氏の祖と言われるようになったのは第二十六代大内盛見の頃です。ここはあくまで供養塔なので、お墓ではありません。聖明王の王子なので仏教風の供養塔なのですが、入口には鳥居があります。神仏習合ですね。大内弘世は知っている人は知っているように、大内氏中興の祖と言われる人物で、南北朝時代に防長両国を統一して大内氏飛躍の基礎を築きました。大内重弘はそんな弘世の祖父に当たります。重弘の弟には長弘(鷲頭長弘)という者がいて、彼とその子供が周防守護という役職を足利幕府から任ぜられていました。弘世は長弘系統の子、弘直を滅ぼすことで周防国を統一したので、その正当性のためにも重弘の血筋は重要だったのでしょう。・アクセスお寺(乗福寺)の裏から入った方が供養塔には近いのですが周辺に駐車場もないので、表の浄福寺から入り、そこの駐車場を利用するといいと思います。周辺には住宅も多いので、周りの迷惑にならないようにしましょう。また、供養塔周辺には一般のお墓もあるのでこれも気を付けましょう。