絶景!
妻木晩田遺跡の特徴
山陰特有の四隅突出型墳が多く、遺跡の魅力満載です。
弥生式住居が復元されており、古代の集落が再現されています。
大山山麓からの絶景が楽しめる、幻想的な場所です。
弥生時代の広大な遺跡です。施設が整備されていて景色もとても良いところです。
大山山麓にある巨大弥生遺跡。日本海美保湾が一望できる高台にあり、とにかく気持ちの良い遺跡です。スケールから言うと吉野ヶ里や三内丸山よりも上で、今後、更に発掘や復元を進めれば大人気遺跡になるポテンシャルを感じます。広義の出雲系勢力が相当力を持っていたことを一発で実感できる遺跡です。大国主かその兄弟か、少彦名命などがこの辺りにいたと思いますし、葦原中国のクニであることは間違いないでしょう。古代史ファン必見の遺跡。青谷上寺地遺跡から出た人の復元展示等も面白いです。
広大な遺跡は見晴らし最高。日本海の海岸線、また風力発電のプロペラが立ち並ぶ景観は古代の遺跡と現代のハイテクも違和感は全く感じられない。目の前にウサギが飛び出しビックリ。因幡の白兎ではなかったけど歓迎してもらった気がした。ボランティアさんの熱心な解説にも感謝。今回の出雲方面の旅行での四隅突出墓は小さいけど一応見られて納得。ただ、穀物倉庫のネズミ返しには少しケチつけてごめんなさい🙇
弥生式住居を復元した遺跡です。もちろん建物内に入ることも出来ます。時代を忘れさせる光景です。
広大な史跡公園日本海、弓ヶ浜、島根半島の絶景も拝めるし、古代史に関心無くても楽しめる。
妻木晩田(むきばんだ)遺跡の名前の由来遺跡の中央部の字名「西伯郡大山町大字妻木字晩田」や従来からの通称名「妻木山」、「晩田山」にちなんで名付けられました。なお、「妻木」という地名の由来は不明ですが、江戸時代には次のような伝えがありました。・伯耆民談記では、光仁天皇の后がこの地の出身で、天皇の命によって「妻来の里」と呼ばれるようになった。・朝妻縁起では、文武天皇の后がこの地の出身で、天皇が「ほふきには 雲のかけはし 大山寺 妻来の里も あるとこそ聞」との歌を詠んだことに由来する。
古代史ファンにはたまらないところ。前方後円墳でもない、円墳でも方墳でもない、四隅突出型墳丘墓と言う「異形」の古墳が最大の特徴だろう。方墳の4隅が伸びたヒトデのような異質感たっぷりの墳丘墓が20m~1mほどまで大小点在している。ヤマト、キビ側とは異質の民族かとも思わせる。2000年前にどこからやってきて1700年前、どこへ去って行ったのか?興味は尽きない。
大山山系・孝霊山から続く丘陵(通称「晩田山」)上に位置し、美保湾(日本海)を一望できる。島根県安来市から、この妻木晩田遺跡まで弥生後期に栄えた古代出雲の中心地であったと考えられる。1995年から1998年にかけて、京阪グループ主導によるゴルフ場建設を初めとする大規模リゾート「大山スイス村」開発計画に伴い、大山町と淀江町の教育委員会により発掘調査が行われた際に発見された。これにより、自治体(県)は遺跡と開発の併存案を打ち出していたが、京阪側は初めから「(遺跡とリゾートの)併存はありえない」と断言し、世間の批評も受け止め「開発できないならば、中止もやむを得ない」と当初から柔軟な姿勢を執っていた。そして全国的な保存運動も展開された結果、京阪側が開発を断念(開発中止を決定)、1999年12月22日に国の史跡に指定され、後に鳥取県によって保存・整備が図られている。なお、発見から全面保存に至るまで遅疑逡巡しているのは、京阪が買い取った土地の買い取りが懸案事項であり、土地の買い取りに税金を投入する必要があったからである。また、この一連の騒動の中で、文化庁の対応も非常に迅速であった。これは妻木晩田がそれほどまでに歴史的重要かつ貴重な大発見であったことを物語るものである。また、遺跡の保存には埋め直しを行わないといけないが、発見後数年が過ぎた段階で、膠着している間に遺構の風化、荒廃が始まっており、一刻の猶予も許さない状況だったことにも起因している。
一度は行く価値あり。風が強くて髪ボサボサになった。
名前 |
妻木晩田遺跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0859-37-4000 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
4.2 |
周辺のオススメ

山陰特有の四隅突出型墳がゴロゴロあるすごい遺跡、ゴルフ場開発でぶち壊す計画が上がった時は断固反対運動に参加しました。