高天神城跡地で歴史を感じる。
堂の尾曲輪跡の特徴
堂の尾曲輪は、高天神城の重要な防御拠点でした。
武田勝頼が築いた延長100mの横堀が見どころです。
天正2年に激闘が繰り広げられた歴史的な場所です。
天正2年6月28日に、武田勝頼と本間氏清・丸尾義清兄弟が戦った曲輪跡です。
高天神城は井戸曲輪を中間にして西峰と東峰に分かれていて、本丸側の東峰は天険の要害で周囲が絶対這い上がれ無い崖に囲まれていますが、西峰側は赤根ケ谷方面から傾斜が緩く高天神城唯一の弱点で武田軍に攻められた時は西峰側は陥落しています。西ノ丸から二ノ丸→堂の尾曲輪→井楼曲輪と細い尾根で、ほぼ赤根ケ谷方面からの攻撃に備えた土塁 V字の横堀 10m前後の切岸に曲輪間に堀切と防御施設が充実していて見所満載です。実際に激しい攻防戦が行われ多くの将兵が亡くなった場所でもありそっと手を合わせてきました。
高天神城の二の丸を守るべく尾根部分を堀切にし、堀切を挟んで反対側に設けられた曲輪。戦略上重要な位置にあった。
| 名前 |
堂の尾曲輪跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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続日本百名城🏯 高天神城跡地4️⃣堂の尾曲輪・井楼曲輪など堂の尾曲輪は2度の大きな戦いで落とされ、高天神城の弱点と見られていたようで、武田勝頼は、総延長100m・幅は4m・深さは2mの長大な横堀を築かせたようです。土塁の頂部から横堀の底まで10数mの高低差があり、西峰の各曲輪が堀切、竪堀で分断されていることから、曲輪の上にたどり着くのは容易ではありません。そんな厳重な防御を施していましたが、徳川家康は、周囲に20ヶ所の陣城や砦を築いて、徹底的に包囲したので、城兵は草木をかじって飢えを凌ぐ状態となりました。時の高天神城将は『岡部元信』彼は桶狭間の戦い時は最前線の鳴海城将。主君の今川義元が死んだ後も鳴海城を死守し、義元の首と交換にやっと開城しました。武田配下になった後も、それまでの数々の武功から小山城や高天神城の将を任せられ、私の中では『絶対に降伏しない武将」という感じで好きです。食糧の尽きた高天神城で、彼のとった最後の選択は、食糧が尽きても力がまだ残っているうちに、最後の突撃を敢行することでした。730人の部下とともに玉砕した岡部元信の碑が、城の北西に残っています。高橋紹運と同じようなカッコいい最期ですが、なぜか信長の野望などのゲームでの能力は低い🥲西の丸跡にも彼の名残りがあります。