新緑に囲まれた後鳥羽上皇の聖地。
後鳥羽天皇御火葬塚(隠岐海士町陵)の特徴
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が崩御した歴史的な場所です。
ここは宮内庁管轄の重要な史跡で、厳かな雰囲気が漂います。
新緑に包まれた御火葬塚は、美しくしっかりと守られています。
ガイドの方に案内してもらいました。とても綺麗に整備されています。5本線の入った塀の向こうに火葬塚があるとの事でした。門には菊の御紋が見えました。すぐそばに資料館があるので、そこも合わせていくとより後鳥羽上皇の事が深くわかるようです。
木々の緑と静けさに囲まれて佇む鳥居。後鳥羽天皇が崩御された後、ご遺体はこの地で荼毘に付されました。遺骨の大部分は今の御火葬塚に納められましたが、明治6年に明治天皇により大阪の水無瀬神宮に合祀されました。翌7年に祠殿は取り壊され、山陵はその後、第82代 後鳥羽天皇御火葬塚として、宮内庁で管理されています。奥の門扉の両脇には天皇菊のご紋が浮き彫りされています。
大河ドラマで注目の後鳥羽上皇が承久の変で敗れて流された隠岐の地で崩御して火葬にふされた場所で宮内庁の所管、なお天皇陵は京都大原の大原陵です。
800年以上経た今でも「ごとばんさん」と海士町の人々に呼ばれ、畏敬の念を持って今でも守られ続けられているそうです。流罪の地・隠岐で詠んだとされる688首の中から選ばれた不朽の名作とされる「後鳥羽院遠島百首」を「遠島百首かるた」にして復活させて、町おこしに活用しています。百首は「春 二十首、夏 十五首、秋 二十首、冬 十五首、雑 三十首」からなり、後鳥羽院のお人柄を如実に表している「我こそは新島守よおきの海のあらきなみかぜ心してふけ」の歌は「雑 三十首」に収められています。
近江へ帰る許六に送った芭蕉のことば後鳥羽上皇の書かせ給ひしものにも、「これら(俊成と西行)は歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる」とのたまひ侍りしとかや。さればこの御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふる事なかれ。なお、「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」彦根藩士、森川許六は、佐々木高綱を遠祖とする。
厳かな雰囲気です。身が引き締まります。宮内庁管轄で中まで入れません。
後鳥羽上皇が60歳で亡くなられ、荼毘(だび)に付された御火葬塚です。後鳥羽上皇は、承久の乱によって隠岐へ島流しされました。承久の乱は、1221年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱です。近くに、後鳥羽上皇行在所跡(あんざいしょあと)があります。後鳥羽上皇が隠岐に島流しにあい、19年間暮らした場所です。
歴史の教科書を思い出すとしびれますね。ここに流されたんですね。雰囲気良いですが、京都に比べるとさぞ格差を感じだでしょうね。素晴らしい歴史遺産なんで、もう少し工夫したら、観光客来ると思います。
宮内庁管轄の立ち入り禁止で何もわからない。
| 名前 |
後鳥羽天皇御火葬塚(隠岐海士町陵) |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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天皇後鳥羽上皇(1180年~1239年 第82代天皇)は、北条義時追討の院宣をもって鎌倉幕府転覆を企てましたが失敗します。この承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に配流されます。配流後、御所となったのが源福寺です。悲憤の生活の心の支えは念仏と歌の道であったといいます。ちなみに、隠岐地方では配流(流罪・流刑)とは言わず、御還幸(天皇が出先から帰ること)と言っています。島の人々に現在も大切にされている後鳥羽天皇の山稜です。後鳥羽天皇が崩御された後、遺体はこの地で荼毘に付されました。遺骨の大部分は今の御火葬塚に納められましたが、1873年(明治6年)に明治天皇により大阪の水無瀬神宮に合祀されました。1874年(明治7年)に祠殿は取り壊され、山陵はその後、第82代後鳥羽天皇御火葬塚として宮内庁で管理されています。