富士山も見える歴史の丘。
八幡城跡(八幡山城跡)の特徴
南からも北からも登路が整備されており、散策しやすいです。
東側からは富士山や南アルプスが美しく見渡せる絶景ポイントです。
駿府防衛のため築かれた城塞の歴史が感じられる雰囲気があります。
2019/1/2神社背後の尾根に削平地がある程度。伝承によればここに太田道灌が陣を敷き、今川氏の家督問題に干渉したということらしい、伊勢新九郎や太田道灌などなど、箱根の坂の舞台だ!
程よい高さの丘、空気も美味しく感じていいですよ!
標高62m、八幡神社⛩️から比高48m登り口は4ヶ所あって遊歩道で山頂と繋がってる説明板が山上の真ん中辺りにあった東側から富士山🗻がハッキリ見える👍️東南尾根が段郭ッポイ けど改変されてて遺構なのかわからない🤷駅南の住宅街だけに 近所の人のお散歩で賑わってた👩🦯🚶🚶♂️
駿河湾や伊豆半島、富士山、南アルプスが見渡せて景色かなりいいです。階段が大変ですが頑張って登る甲斐がある景色です。
城跡としての確実な痕跡はなかったですが雰囲気はありました。静岡の街が良く見えました。頂上に八幡山城の看板があります。
山城城址ですが、府中(駿府)街並が良い眺めです。
説明書よりーーー八幡山城応永十八年(一四一一)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、周辺の要所要所に城塞を築いて駿府防衛の万全を期した。八幡山城もその一つである。文明八年(一四七六)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。八幡山城は、駿府城へ一・五キロメートル、北方愛宕山城ヘ二キロメートル、東方小鹿範満の館へ二キロメートル、西方安倍川を隔て持舟(用宗)城まで五キロメートル、それらはすべて指呼の間に一望することのできる重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を、修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当っていた。長享元年(一四八七)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城(沼津)へ移った。永禄十二年(一五六九)武田信玄の第二回駿府侵入以来十二年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくここを使用した。天正十年(一五八二)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正十八年(一五九〇)関東へ移った後廃城になったと思われる。城址は、標高六三・七メートル、南北五〇〇メートルの独立丘陵で、近年公園となり、大きく変貌したが、今なお曲輪や空堀などの遺構を見ることができる。昭和六十年一月静岡市。
小さい頃に行ったきでしたが、城跡だと知り行ってみました。曲輪跡が残るとのことで、注意しながら見て登ると。確かに斜面は人口的に作られた段を重ねた構造になっていて道も不自然に多い。途中途中で平な広場が有るのも、城構造の名残と思われます。城跡と思わなければ、ただ小山の公園なのですが、城と思って見ると面白いです。
室町時代から駿府の防衛のための城塞のひとつ、太田道灌、北条早雲、武田信玄、徳川家康などが警護のため使ったと伝えられている。頂上からは富士山も見える。
名前 |
八幡城跡(八幡山城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.7 |
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南からも北からも登路が整備されていた。山頂部は公園になっていて展望が得られる。三角点は最高点の少し横にある。土砂が流出したらしく、石がかなり見えていた。