有智子内親王墓に心癒される。
嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓の特徴
嵯峨天皇の皇女、有智子内親王の墓です。
大同4年に建立された由緒ある史跡です。
外見の写真撮影が可能なスポットです。
嵯峨野天皇 有智子内親王墓大同4年(809年)、父の嵯峨天皇が即位。弘仁元年(810年)、4歳で賀茂斎院に卜定される。同9年、斎院司開設。同14年(823年)2月、三品に叙され封100戸を賜る。同年4月、嵯峨天皇が譲位する。天長8年12月8日(832年1月14日)、病により退下。同10年(833年)、二品に昇叙。承和14年(847年)薨去。享年41。有智子内親王は弘仁元年(810年)の薬子の変をきっかけに、初代賀茂斎院に定められたと言われる。嵯峨天皇の皇子女の中でも豊かな文才に恵まれた皇女で、弘仁14年(823年)嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に優れた漢詩をものしたことから、感嘆した天皇は内親王を三品に叙したという。その詩作は『経国集』などに合計10首が遺されており、日本史上数少ない女性漢詩人の一人である。陵墓は京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町、落柿舎の隣。
宮内庁管理なので、外見写真のみです。
有智子内親王は第52代嵯峨天皇の第8皇女である。生誕は平安時代の大同2年(807年)、日本史上数少ない女性漢詩人の一人である。承和14年(847年)逝去。
嵯峨天皇の第八皇女で初代加茂斎王。京都三大祭のひとつ葵祭の斎王代のモデルかも。幼い時から漢詩に抜群の才を発揮したと伝わる。落柿舍横だが、元は彼女の春日山山荘の跡と伝わる。中を覗くと小さな墳墓の前に墓碑が建つ。葵祭に来られた方にはぜひ訪ねて頂きたい。春光初動寒猶緊日射しが春っぽくなったけど寒さはきびしい一株梅花雪裡開梅が一株、雪に埋もれながら花を咲かせてる想像宮中嬋娟處思い出すのは華やかな宮中のこと暗知黄鳥梢相催ふと鶯のさえずりに気づいて、寂しい斎院にも春が来るって実感するの誤訳のツッコミはなしで。
目の前が開けたとても良い場所です。
嵯峨天皇の皇女、有智子内親王の墓ですよ。落柿舎に向かう途中、気が付きました。目立たない場所に、ひっそりと佇んでいました。天皇の皇女が、寂しいなぁという感じでした。せめて、お父上である天皇陵に御一緒できたら、良かったのになぁと思いました。でも、宮内庁で管理しているので、きちんとしたお墓でした。
いい場所ですね。前(南側)の大草原が素敵です。初代の賀茂の斎王(斎院)ですが, この方のおかげ*で都が京都に定着したとも言える訳で, 京都ブランドで飯食ってる人は絶対にお参り欠かしちゃダメですよね。🤔 2019.5.19(*都を平安京に遷した桓武天皇の次代・平城上皇は都を奈良に戻したくて弟・嵯峨天皇と抗争勃発(薬子の変810)→嵯峨帝は賀茂の神に, 勝てたら皇女を捧げますし!と祈願→無事勝利→賀茂斎院制度爆誕! ...とされておりますので)
名前 |
嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.7 |
周辺のオススメ

嵯峨天皇第8皇女であり、漢詩人、初代賀茂斎院となった人物。