古郡家の中臣崇健神社へ。
中臣崇健神社の特徴
平安時代の延喜式神名帳に載る由緒ある神社です。
独自の特徴を持つ中臣崇健神社は、訪れる価値があります。
車でのアクセス便利でも、道は狭めなので要注意です。
中臣崇健神社は古郡家にあり、平安時代の延喜式神名帳に載せられた古い神社です。石宝垣を神居として、本殿がないのが特徴です。
「中臣崇健(なかとみたかたけ)神社」は由緒ある神社ですが独自の特徴があります。社殿がありません。神託を護り通しているのです。社殿はありませんが、あるとしたらこの位置という場所の側、御神木の松が途中で折れて株部を残してその上を屋根で覆っています。これにもびっくりしましたが、更に石で出来上がった二本の足がまるで生きているように長い間転がっていたのでしょう。ごろりと横たわっています。境内は涼やかで風通しがよく神社横の手入れのある雑木林には沢山の椎茸の原木がすっきりと立て掛けてあります。神様の恵みですね。鳥居の側の説明文に(神社名は神託を高大な(崇健)として守り通していることから由来する旨)とあり、それならばそれでしかありえないと納得しました。実に個性豊かな神社です。
よく車でお参りに来る人かいるみたいです車で来る人は、道がけっこう狭いのでどこかに止めてきたほうかいいです。
| 名前 |
中臣崇健神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
中臣崇健神社ちょっと長くなってしまって、自分でもうんざりなんだけど。岡森天王と称していた。延喜式神明牒に載る所の 中臣崇健神社 はこの神社であると因幡誌にはある。神殿をもたず、ただし林木欝茂(うつも)の地をさして神居とする、とある。 岩美郡史 にあるように祭神は 大物主神(おおものぬしのかみ)であると思われ、因幡誌にあるように、奈良の三輪山にある大物主神が祭神である大神神社 (おおみわじんじゃ)と関係があるようである。この神社も此処の神社とおなじく神廟がないのが特徴である。877年に 陽成天皇の大嘗祭 の時に 班幣(はんぺい)に預かっていたり、927年に書かれた書(延喜式)に載っていたりして、古くから存在していた神社であると言うのと供に、神社を支えてきた、この郷も古い時代から存在する郷であると言える。___________________❹【参考 鳥取県神社誌 昭和10年】中臣崇健神社祭神 不詳 (社殿に大物主命という)延喜式所載の小社である。岡森天王と称し、国造(くにのみやつこ)伊福部氏の崇敬あつしと伝わる。古くより本殿を建立せず、林中に石玉垣を築き神居となす。因幡誌に「参考❷ 因幡誌」元慶元年(877年)9月 陽成天皇の大嘗祭に班幣(はんぺい)に預かる承安元年(1171年)源頼政、当社を信仰し、陶器製の吊燈籠を献せりとの伝説がある。明治40年(1907年)4月27日 神饌幣帛料供進神社に指定される。[例祭日] 4月19日[建造物] 拝殿 神楽殿[境内地面積] 969坪_____________________❸【参考 因幡誌 明治37年】岡森天王 (明治37年の頃のこの神社の紹介文となる)延喜式神明牒に載る所の 中臣崇健神社 はこの神社である。その祀る所の神廟なし、ただし林木欝茂(うつも)の地をさして神居とする。郷民つたえていう、この神の形はなはだ高大なり。神記にいわく、「われの形、林の木々のこずえと等しく、普通の小祠にいることを得ず、社宇を造るべからず。これによりて、社無しと言い伝わる」という。考えるに、神託の語韻長高は和語崇健の義に通す、又中臣は人の姓なり、津速魂命の三世の孫である天児屋根命より出つ若しこの命(みこと)を祀るにや、或いは曰はく、隣村を三輪と号するのは此の神の社なきをもって、大和国大三輪を表称すともいう。_____________________大正に書かれた本によると、神社の祭神は、はなはだ高大であり、林の木々のこずえと等しく、普通の小祠にいることを得ず、社宇を造るべからず、これによりて、社無しと言い伝わる、とある。祭神は 無記名 となっている。因幡誌によると~とかかれているので、因幡誌を調べることとする。❷【参考 神明牒 大正14年】中臣崇健神社(なかとみたけたか神社)(大正14年頃のこの神社の紹介文となる)[稲葉民談より]郡中の久末村(ひさすえ村)と言う村にある。崇健(たけたか)天王の社と言い、因幡誌に三戸(みと)古保久末村にあり、岡森天王と称す。神廟なし、林木繁茂の地をさして神居とする。[里民いいつたえ]この神の形、はなはだ高大なり。神託によると“われの形、林の木々のこずえと等しく、普通の小祠にいることを得ず、社宇を造るべからず。“これによりて、社無しと言い伝わる、という。[鎮座地] 古郡家村大字古郡家字宮ノ前[祭神] 無記名[例祭日] 9月19日[社格] 村社_______________________________________神明牒に載っている、とあるので、神明牒をのぞいてみる。神明牒では祭神は 無記名 となっているが、明治の頃には 大物主命 とある。❶【参考 岩美郡史 明治35年】中臣崇健神社(なかとみたけたか神社)(明治35年頃のこの神社の紹介文となる)神明牒に載っている、とある。[鎮座地] 三戸古村大字古郡家[社格] 村社[祭神] 大物主神(おおものぬしのかみ・国造りの神)[境内地面積] 320坪[氏子] 75人。