子育て地蔵の隣で感動体験。
旧・小文間小学校の南東、エビヤの隣の角地にある「首切り地蔵」、あるいは「子育て地蔵」とも。首から上はついている。頭の病に特効があるとされる。祭礼は旧暦の8月15日。現在も堂宇やその周辺は手入れがなされており、御花も供えられている。この周辺は明治~大正期に中央地蔵前と呼ばれていたこともあり、地域のランドマーク的存在であったことがうかがえる。小文間の名士であった故・饗場芳隆氏が記した『小文間物語』(崙書房出版、2010)によれば、そのいわれは次のとおりである。「江戸時代に小文間村永代名主であった斉藤宗四郎が、村役から『化け地蔵が、かつての小文間城主、一色宮内少輔政良が敗北し処刑された刑場の跡地に出た』と通報を受け、その化け地蔵の首を刎ねたが、床に戻ったところ体が震えて熱気が出た。そこでかつて一色氏の祈願寺として小文間城の鬼門に創立された東谷寺の住職に相談した。すると、『それは刑死した人や小文間城の戦死者の怨念が地蔵の姿に乗り移って表れたのだ』と言うので、懇ろに祈祷を行い、首を切った地蔵を別の地に塚を築いた。その首をつないで祀ったのが小文間小学校前の地蔵様である。」小文間の人々はこの地蔵尊を長らく恐れており、大雨の日にはこの地蔵の前に血の雨が降るという伝説があった。似た名前の「首欠け地蔵」の名称と存在は、元を辿ると寺田喜久氏が1922年に発刊した『相馬伝説集』の言及に拠ると考えられる。そこでは「首欠け地蔵」となった経緯を、明治15(1882)年に一色氏の首切り場にあった石の地蔵の首を何者かが切って捨てたことによるとしている。また、これにより鮮血のようなものが流れ、あたりには人家もなく恐ろしい場所となっていたところ、余所から来た人が発見し評判となり、見物人が多いため地元で堂宇を立てたとし、祭礼日は7月23日とある。確かに、この場所から南に歩いて3分ほどの墓地には首から上の部分がない仏像が存在(現存)する。かつては取手町(のち取手市)が発行していた出版物にこの首のない仏像の写真が「首切り地蔵」として掲載されていた。この墓地に斉藤宗四郎家の墓があり、『相馬伝説集』ではこの墓地にあった地蔵が化けて人を驚かすため、小学校前の地蔵と取り換えたとしている。一方、饗場氏によればこの墓地にある地蔵は小学校前に現存する「首切り地蔵」とは無関係のものであり、地元である小文間では誰もが「首欠け地蔵」というものはなく「首切り地蔵」と称しており、「首欠け地蔵」の名前や伝承の由来は不明と主張している(『取手町郷土史資料集』の記述より)。
名前 |
地蔵堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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首欠け地蔵というくらいだから、首の無いお地蔵様が鎮座しているのかと思いましたが、2023.4.1現在、落書きのようなお顔のお地蔵様は祀られていましたが、首欠け地蔵はどこにも見当たりませんでした。他の方の投稿した写真には確かに写っていますから、少し離れた別の場所に居るのかもしれないですね。ちょっぴり気になったのでネット検索したところ、首欠け地蔵というのは、明治時代に発令された「神仏分離令」が関わっているようで、全国各地で発生した仏像などの破壊行為によって、路上のお地蔵様も頭部破壊の被害にあったんだそうです。