小さな石柱が語る歴史の魅力。
安藤橋碑の特徴
交差点の歩道にひっそりとある小さな碑です。
昔は橋があったことを実感できる場所です。
中山道の大宮宿に関連する歴史的な石柱です。
その昔橋があったなんて想像もできない交差点の歩道にひっそりと… 中山道の大宮宿はこの橋を渡ってからだったとか。橋の手前(江戸方面)の今コクーンシティがあるところは刑場(罪人を処刑する場所)などがあったところです。
ちょうどこのビルの前にある電柱の脇に、小さな石柱が立っている。ここには「安藤橋」があった。紀州鷹場本陣・北澤家の失火に始まり大宮宿の85軒を焼いた1775年の大火(北澤大火)は、その救助活動が7日に及ぶほどの惨事であったという。 言い伝えによれば、この事態に際してときの勘定奉行であり道中奉行であった安藤弾正は、被災者に幕府の御用米と御用金を施し、宿場町を救ったと伝えられている。 しかし、それは許可を取らない独断による措置であったため、彼は責任を問われて切腹した。 安藤弾正に救われ、その死を悼む人々は、その徳を永く後世に伝えるため、墓碑を建てて祀ったという。
ちっさ!最初どこにあるのかと……安藤橋の名前の由来は安藤惟要にあるそうだ。なんでも1775年に大宮宿の本陣であった北澤家宅から出火し、延焼。家屋八十五棟が焼かれる大火となった。ときの勘定奉行安藤惟要は、これを不憫に思い、自身の権力を使って、江戸幕府の金と米を大宮の人々に分け与えたという。これは民草から見れば、大変ありがたい決断だ。が、幕府方から見れば立派な横領なわけで……安藤惟要は、その責任をとらされ切腹させられたんだとか。で、これを知って悲しんだ大宮の人々がこの橋に「安藤橋」と名付けて、彼の名前を後世に伝えようとしたのだそうだ。ただ、安藤惟要の死亡時期は1786年となっており、決して1775年前後ではない。しかも、1782年まで勘定奉行を全うしたとする記録がある。水差すようだが、上記は眉唾な逸話だろう。さいたま市立博物館にも安藤橋の一部が残されているそうだ。
| 名前 |
安藤橋碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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小さすぎて見落とすくらいの碑!