金色に輝く三十三観音。
深堀観音堂の特徴
金色に輝く三十三観音を間近に見れる、荘厳な雰囲気のお堂です。
最上三十三観音霊場の第二十七番札所として、訪れる価値が高い場所です。
近隣住民が交代で別当を務めており、地域に根付いた温かい場所です。
空気も全て最高でした。
最上三十三観音霊場第二十七番札所。深堀観音堂。
最上三十三観音の参拝でお伺いしました。コロナウィルス感染症の影響で二年間延期されていた霊場御本尊の御開帳(観音堂の観音様)です。香林山清行院といい曹洞宗のお寺で、観音霊場第二十七番札所になります。香林山清行院は明治時代の初頭に発令された神仏分離令により、修験宗であった清行院住職の法印は神官に復職して行沢糺(ただす)と改名し、また明治十一年には観音様との関係を断絶したため以来深堀観音は村人が交代で管理する観音堂として現在に至っている。尊像は観音堂の天井裏板の上に安置してあり、屋根換え工事の時でなければ開帳されない。観音堂内には西国三十三観世音菩薩像と御前立が奉安されている珍しい観音堂の形式である。観音堂の中でお勤めをしました、別称で深堀観音と呼ばれています。御本尊は聖観世音菩薩で聖徳太子の作といわれ、この地に安置されるまでにはいくつかの道のりを経てきたといういわれがある。その昔、都に安戸見一尾という人がこの尊像(観音様)を持っていたのだが、その子孫が没落したため朝夕のお勤めも思うようにならなくなったため、不敬に取り扱われることを心配して比叡山に奉納した。その後、安戸見一尾の子孫である川辺市正という武士が、祖先が崇拝した仏であることを知り須磨寺から貰い受けて守護仏とした。さらに長谷川盛易の手で大和の国の橘寺に納められた。その後大阪夏の陣の戦いので、時の九鬼一之進がこれを頂いて戦場に出たが九鬼はこの仏を松永弾正公に譲った、松永家は徳川幕府に仕え数代の後に浪人となり奥州白河に住んだという。その子孫が山形市外の古館に住んでいたことから、尊像は大竜寺に安置された。正徳六年九月十六日(清行院宗順法院の代)に、当時深堀観音に安置されていた観音像が何者かに盗み去られ見当たらなくなっていたことから、大石田立光庵の海存坊が大竜寺よりこの尊像を譲り受け深堀観音に移遷したのだという、明治維新後の経緯は前述のとおりです。
よく分からず参拝畳敷きのお堂の中は色んなが観音様が安置されていたどこかアットホームな雰囲気メイン尊像は天井裏に安置されており、屋根換えの時でしか見れないらしい。
最上川に近いお堂です。管理する方が毎年変わる場合があるそうです。2022.8.11
大石田町豊田にある深堀観音堂です。御本尊は聖徳太子作といわれる聖観世音菩薩。行沢家の初代宗念は戦に敗れ一人比叡山に逃れた。三年の修行の後、深堀村に辿り着き村童に読み書きなどを教え、その後最上川べりの地に観音堂を建立し、戦で死んでいった行沢一族の霊を奉ったといわれる。十六代宗順は戦に敗れ清行院の養子となり、清行院の聖観音を古観音に移し、現存の観音堂を建立、本尊を安置したと伝えられます。有り難く、最上三十三観音霊場第27番札所の御朱印を頂きました。
深堀観音です。通りから見えるのでわかり易いです。
御朱印所は観音から北へ200mほどでしょうか、行ったお宅にあります。三十三観音の赤いのぼりあります。
27番所とっても素晴らしいです。
名前 |
深堀観音堂 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0237-35-5024 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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堂内に、金色に輝く三十三観音があります。