脇本陣跡で歴史感じる旅。
中山道倉賀野宿脇本陣須賀喜太郎家跡の特徴
昔の宿場町の雰囲気が漂う場所です。
倉賀野宿の脇本陣跡として残る歴史的な家屋です。
修復された本陣跡で往時の姿を想像できます。
宿場町らしい雰囲気が残る場所。中は一般住宅なので見学不可。すぐ左手に高札場跡あり。
倉賀野宿は中山道が整備されると例幣使街道との追分の宿場町として栄えました。また、利根川や烏川の河岸への物資の集散地としても賑わったそうです。本陣1、脇本陣2、旅籠64軒と当時の繁栄ぶりが偲ばれます。
改築前の昔の写真。
倉賀野宿の脇本陣跡です。倉賀野宿は中仙道と日光例幣史街道の追分宿として栄えていたようです。今は隣宿の高崎の方が圧倒的な市街地ですが、高崎は城下の武家屋敷町と言う事もあって宿場としては規模がかなり小さかったようです。代わりに倉賀野宿には本陣、脇本陣があり、且つ利根川水運の起点としての機能もあったようで、大層な賑わいを誇ったとの事です。今は車の交通量だけは多いですが、商業的には静かな場所へと変化しています。また現在も人が住んでるようで、門内への立ち入りは出来ずに石碑を眺めるだけの場所です。
カジュアルな宿場町でした。中山道倉賀野宿は、日光例幣使街道との追分(分岐点)があったとともに、烏川~利根川を利用した江戸との舟運により大きく発展しました。隣の高崎藩は歴々の譜代大名が治める武家町。風紀も厳しく堅苦しい宿場町は市井の人々にはあまり人気がなかったようです。その反動(笑)として、ここ倉賀野は旅籠や飯盛女が集まり、また上毛各地の名物も集まることから、多くの旅人で賑わったようです。やはり旅の楽しみはやはり繁華街。今も昔も人間は変わらないですねー。
石碑だけでなく家そのものが令和になっても残っているのが驚きです。現在住人がいらっしゃるのか公開されているのか、情報を聞いてみたい人にとっては興味津々でしょう。
本陣跡は美しく修復され、往時の姿を想像させます。また倉賀野宿は、旧街道の面影を色濃く残しています(*^^*)この倉賀野宿で、中仙道は日光例弊使街道と別れて行きます。宿はずれの閻魔堂の辻には「これより右江戸道 左日光道」と彫られた道しるべが、いまも残されています。ここから新町宿まで、何度歩いたことでしょう。途中には、昔のままの美しい蔵あり、芭蕉が足跡を残した句碑あり…分去れの辻から一歩踏み出すときには、江戸の頃の旅人と同じ気分に浸れます(^_^)v
佇まいだけでも歴史を感じさせられます。表に名が彫られた石碑があります。かつては旅籠だったようです。
倉賀野宿には脇本陣が2軒あったが、そのうちの1軒である須賀喜多郎家の屋敷。道を挟んだ南側、銀行の西隣りはもう1軒の脇本陣兼河岸問屋で、須賀庄兵衛家が代々世襲していた。
名前 |
中山道倉賀野宿脇本陣須賀喜太郎家跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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かつて倉賀野宿に2つあった脇本陣の一つがここです。外回りが趣があっていい感じです。広大な敷地は広く個人宅として使用されているようです。