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与謝蕪村は大阪・毛馬の生まれだが、20〜30代の頃10年ほど結城に滞在している。数少ない蕪村の結城時代の痕跡として、師のように慕っていた早見晋我の死を嘆いて作った有名な詩『北寿老仙をいたむ』があるが、この詩を刻んだ石碑が晋我の墓所でもある妙国寺に建てられている。「君 朝(あした)に去ぬ 夕べの心 千々(ちりぢり)に、何ぞ遙かなる。君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ、岡のべ 何ぞかく悲しき」と始まるこの自由詩は、近しい者を亡くしたことがある者なら誰でも胸を揺さぶられるような旋律がある。明治期になってから正岡子規らが「近代詩の先駆け」と絶賛したというのも頷ける。尚、詩の全文は、石碑の裏側に読みやすい楷書体で書かれている。因みに蕪村自身はこの詩を世に出すつもりはなかったらしく、蕪村の死後、晋我の息子・桃彦が亡父の五十回忌に出版した俳諧撰集『いそのはな』(1793)の中に「庫のうちより見出しつるままに」という付記と共に収めたとのこと。尚、蕪村が俳人・画人として花開き世に知られるのは40歳を過ぎ上方に戻ってからで、結城には10年も滞在していながらその足跡を残す史跡などが少なく、それを憂いた有志の方々が市内に幾つか句碑を建てている(結城駅前、結城城跡公園、弘経寺など)。京で活躍していた頃の蕪村は人付き合いが苦手な自由人と評されているようだが、少なくとも結城にいた頃は下館、宇都宮など含め様々な人と大いに交流していたようだ。きっと若い頃はこの地方の大らかな自然と文化に触れて、人々とも打ち解けた日々を送っていたのではないかと想像される。