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江戸時代の中山道にあった一里塚跡の説明看板。中山道分間延絵図、岐蘇路安見絵図ともに、並木道の途中に一里塚が描かれている。倉賀野宿の上の木戸は現在の上町西交差点より約300mほど東方にあり、木戸を出ると並木道となっていた。塚の手前、街道筋に安楽寺、街道から離れて林西寺が描かれ、北塚の西側に接して野道がある。上記の事から、ほぼこの辺りで間違いはない。しかし、この説明看板には間違いがあります。「日本橋から26番目」となっていますが、これは正しくありません。日本橋から倉賀野まで、実測で約104kmあって26里目となりますが、寛政12年(1800年)編纂の中山道分間延絵図では、日本橋から倉賀野までの一里塚は19ヶ所しか描かれていません。一里塚と言うからにはこの間に26ヶ所あるんじゃないの?7ヶ所が描かれてないの?と思いますよね。でも、違うんですよ。一里塚と言っても、どうやらきっちりと一里ごとに築いた訳ではないようなのです。例えば、比較的旧道が良く残り一里塚の場所も(消滅はしているが)ほぼ確定している上尾〜桶川の一里塚間は実測で4.7kmあります。また、1里目の一里塚は本郷追分で確定しており、2里目は場所が確定していないものの平尾(板橋駅付近)辺り、その次が現存している志村の一里塚。この本郷から志村までは実測で9kmあります。他も、大部分の一里塚間の距離は4kmを超えているので、徐々にずれていって、里程と一里塚の数が合わなくなるのです。ちなみに、中山道分間延絵図に描かれてはいないが、実在したであろう一里塚は、戸田(荒川の氾濫で流失?)、大宮(中山道のルート変更により旧道に取り残された?)、馬室原(中山道のルート変更により旧道に取り残されたが現存)、深谷(不明)、立石(烏川の氾濫で流失?)の5つ。合わせて24の一里塚。日本橋からの距離で考えた場合、「11番目:馬室原の一里塚」で約47km=約12里、「19番目:岡下の一里塚」で約83km=約21里、となり、里程と塚数にズレが生じています。分間延絵図に記載のない一里塚の場合、その前後の距離からしておおよそ一里塚1基分ですので、倉賀野が24番目というのはほぼ間違いがありません。倉賀野一里塚の史跡案内板が何を元に「26番目」としているのかは定かではありませんが、中山道分間延絵図を元にするのであれば、「26里24番目(又は19番目)の一里塚」が正しい表記になります。