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名前 |
数ヶ室の郷蔵 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
明和六年(1769)に、黒羽藩が、飢饉に備えて村々に建てた穀類貯蔵倉庫の一つで、管理は主に役人があたっていた。村の人口に応じて上中下に区分し、稗粟を貯蔵した倉庫であり、稗を一戸あたり五合ずつ、毎年蓄えた(「那須塩原市の文化財−2019−」には、一戸当たり2升(3·6リットル)程度、毎年蓄えたようである。と書かれている)。この郷蔵の貯穀によって、天明の大飢饉ー天明二年(1782)〜天明八年(1788)ーの時、天明三年(1783)天候不順のため凶作になり、関東地方で餓死する者二十五万人に達したが、黒羽藩領内からは、一人の餓死者も出さなかった。後に黒羽藩家老になる農政家、鈴木為蝶軒武助正長が、郷方吟味役の時に行った農政改革の一つ。鈴木為蝶軒武助正長は、功績により、大正十二年(1923)、正五位を追贈されている。用材は丈夫な栗材が使われ、内部は中央で、取り外しのできる板で、左右に仕切られている。屋根は杉皮葺であったらしい。ずいぶん傷んでいるが、まだ、建っている時に見ることが出来て嬉しい。道路からの分かれ道が、ソーラーパネルの間の道で、分かりづらかった。