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| 名前 |
武熊城跡 石碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
1.5 |
| 住所 |
|
武熊城は延文年間(1356~61)に大掾氏の一族である石河十郎望幹によって築かれた。室町時代以降は江戸氏の支配する城となったが、文禄3年(1594)に佐竹義宣が領内の国人衆を一掃する過程で江戸氏は没落し、義宣が水戸城を居城とすると武熊城は佐竹義久が城主となった。 義久は外交面に長けており豊臣秀吉の信任も厚く、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍寄りの動きを見せた佐竹氏の処遇を廻り徳川家康との交渉を受け持ったが、長年の苦労が祟ったのか交渉を終えたあとに亡くなっている。武熊城はしばらく水戸藩によって管理されてきたが、慶安4年(1651)に千波湖の干拓事業によって廃城となった。現在は案内の石碑が残るのみである。