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名前 |
馬廻塚馬頭観音堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
長い石段を上ると、右側に、伊勢参宮紀年碑。両側に部屋と土間のある、長屋門のような建物物をくぐると、短い石段。上ると、明治廿四年(1891)二月廿八日、刻の、大きな石灯籠一対。安政七庚申年(1860)二月廿八日、刻の、馬巡墳・馬頭観世音、の石柱。奉納手水盥。明治廿三稔(1890)二月廿八日、刻の、馬頭観世音、の石柱。本堂石檀供養塔。奉納 馬頭観世音、の額の掲げられた立派な本堂がある。本堂に向かって右裏に、大正十五年(1926)刻の、生駒大神、の大きな石碑。向かって左側に、馬頭が四の明治三十年(1897)、馬頭が二の昭和十九年(1944)、馬頭が一の昭和十四年(1939)、馬頭が三の昭和九年(1934)、馬頭が二の昭和九年(1934)、馬頭が二の昭和十九年(1944)、の馬頭観音群。馬頭観世音菩薩、の大きな石碑。石柱の囲いのあるもの(馬巡墳であろう)がある。場所がわからず、尋ねあてると、立派な馬頭観音堂であった。昔は、祭日には、下に店がたくさん並んで、各戸で一升餅をつくり、競りをしたものだという話を、下の家の人に、きくことができた。源平の争いの時、那須家は、九男まで平家方で出陣させていたため、平家が滅ぶと、源頼朝の命を受けた、梶原景時を総大将にした大軍に攻められ、高館城は落城し、城内で飼われていた鵜黒(那須与一宗隆の愛馬)は、野馬となって、那須山麓に逃れていたが、鵜黒が死んだ時、秋元出水亮が、鵜黒が住んでいた近くの小高い山の上へ埋め、塚を築いたのが、馬廻塚(うまめぐりづか)で、秋元出水亮の子孫が、馬廻塚の傍らに、馬頭観音堂を建立し、馬の繁栄を願った。祭日には、参詣者は、馬廻塚の周りを三遍廻り歩いた。馬頭観音堂にたどり着く手前に、明治廿一年(1888)、刻の、馬頭四の馬頭観音、着色の残る、彫りの細かい、青面金剛明王像(台座に、見ざる、聞かざる、話さざる、の三猿神が彫られている)、素朴な青面金剛明王像、手が欠けている、如意輪観音、首が落ちてしまった、地蔵尊、が二又の道の間に並んでいる。