平安時代の足跡、徳丹城の歴史。
徳丹城跡の特徴
平安時代初期に築かれた律令制の城柵で、歴史を感じられます。
毎年開催される徳丹城祭りは地域の楽しみで、訪問する価値があります。
近隣には南部曲り家の古民家があり、文化を体験できる場所です。
813年頃に造営された、平安京時代の東北蝦夷征討のための政庁跡。律令時代最後に造られた政庁跡、軍事拠点。数十年機能を果たしたが、その後消滅。元々は紫波城柵がさらに北側にあったが、度重なる水害により被害を受けたことと、平安京造営や蝦夷征討で財政が厳しかった都の方針転換により、南側に小さな規模でここ徳丹城柵が造られた。跡は余り残っていないが、一部施設の復元がなされており、国指定史跡。発掘された(木製甲冑が貴重らしい。)
2021年8月20日に見学しました。弘仁4年813年に完成し、志波城から政庁の機能を移したと考えられる城柵です。官衙の規模は、そう大きくはありません。平安時代の朝廷が、東北地方に対する政策を転換させたためと思います。朝廷支配を進める最後の官衙となりました。品の字型の伽藍配置になっています。北側は、徳丹小学校のグラウンドに当たります。この城柵が、いつ頃まで機能していたのか興味の尽きないところです。貞観11年869年の陸奥国大地震で倒壊した可能性は有るのか知りたいものです。
小学校の敷地内にある歩道橋から見下ろす方が全景がよく分かる駐車場がないので向かいの資料館から来るのがベストかも。
現在の岩手県紫波郡矢巾にあった古代の城柵。 この地域には志波城がありましたが、水害を理由に徳丹城が造営されたとのことです。 弘仁3年(812年)の造営で、律令制最後の城柵だそうです。
何もありません。でも、何もないと、いろいろと妄想ができます。1200年前の人がどんな生活をしていたか、また、蝦夷との関係など、ここに立って、ボッーとすると、なんだか、歴史を感じられます。近くの資料館を見てから来ると、良いと思います。歴史が好きな方にはとても、オススメです。
国道で分断されていました。
徳丹城祭り毎年楽しい。
子供のころはここが遊び場でした。施設とかはあまりないので草原と言う感じです。資料館みないとイメージがつかないのではないかな。
いつになったら国道4号線 立ち退きするんだろう。阿弖流為の歴史をもっと知りたい。
| 名前 |
徳丹城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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2025.1.23の訪問。徳丹城(とくたんじょう)跡は弘仁3年(812)に造営したと推定されています。城跡は一辺が約350mくらいのほぼ正方形で資料館でマップをもらって城跡巡りすることをお勧めします。