坂上田村麻呂の城跡で古を感じる。
志波城跡の特徴
国の史跡に指定された志波城跡で平安初期の歴史を感じることができる場所です。
竪穴建物の復元が素晴らしく、具体的な理解を深められます。
坂上田村麻呂によって築かれた城柵跡が魅力的で、歴史探訪に最適です。
平安時代の陸奥國最大の政庁跡であり城柵です。古代ロマンを感じたいのならば是非訪れてみてください。1200年前という途方もない古の時代の建造物を少しでも再現できているという時点でこの場所には大きな価値があります。近くの雫石川にいじめられてわずかな歴史しかない場所ですがその大規模さを感じることができます。古代ロマンを物凄く感じることができ、一体どんな生活が営まれていたのだろうと想像するだけで楽しくて仕方ありませんでした。一つ驚いたのはこの時代の兵士の家は竪穴式住居であったということです。個人として竪穴式住居は飛鳥時代くらいのものであると思っていたので平安時代の政庁内でも使われていたというのは新たな発見でした。
志波城の政庁域が忠実に再現されています。正殿や脇殿など建物跡が分かりやすく表記されていました。内部からぐるっと見る城跡もまた興味深いです。広場でどのような儀式やイベントがされたのか想像力が働きます。
ここは西暦803年に坂上田村麻呂により築かれた大和朝廷の城であり周辺の服属した蝦夷が来庁し服属を示す場としての機関でもあります。この手の建物は古代城柵とよばれてます。1976年あたりの東北自動車道の予定地から発見され、それまでは場所不明であった幻の紫波城発見となりました。坂上田村麻呂の敵と云えばアテルイとモレの二人なのですが、アヌシキという人が紫波郡には出てきます。大和朝廷と友好を結んだ蝦夷の彼ががいたからこそ紫波城の建設に繋がってく経緯があるそうです。紫波城は雫石川の反乱により10年という短い期間で廃城となり南へさがった新しく徳丹城跡を造り機能を移転しました。門と官舎が復元されてます。正庁も復元されてたらベストかなと思います。ここから見る岩手山もキレイです。
国の史跡に指定されている「志波城跡」は平安初期の城柵跡です。とても広大な敷地を誇っていて、その中に門や塀、櫓を始めとして政庁跡等が平安当時のように復元されています。志波城は坂上田村麻呂の蝦夷討伐の拠点となった柵ですが、復元された建物を見ると戦闘用と言うよりは官庁的な位置づけだったのではないか…⁉️と思います。それは平安当時では圧倒的に進んだ木造建造物だったハズで、それを見た蝦夷の民も朝廷の権力の強さを感じたんだろうと思います。造るのにどれくらいの労力を使ったんでしょうか⁉️、案内によると水害発生の為にわずかな期間にて別箇所に機能が移転されたとの事です。
奈良・平安時代の政庁跡として胆沢城ともっと連携してアピールすれば良いと思います。ついでに同じ東北の遺跡として秋田城や多賀城とも連携すればもっと良いかと思います。
天気の良い日に散歩する場所に適所。
坂上田村麿呂が築いた城で国の史跡です。外郭は溝と築地塀で構成され、櫓が約60メートル間隔で設けられています。60メートルというのは当時の弓の射程から決められたそうです。内郭は、外郭の中心部よりやや南よりに方形の築地塀で囲まれています。内郭の内側は政庁で中央に正殿があり、周囲に脇殿等の建物があった模様です。現在南門、東門、西門が復元されています。内郭と外郭の間は官衛があったとされています。外郭南門と内郭南門の間は大路で結ばれていました。史跡は志波城史跡公園として整備されています。
蝦夷支配の為、征夷大将軍の坂上田村麻呂によって築かれた城柵(軍事的防御施設、砦みたいなの?)一言でいうと広い。一面の芝生にシロツメクサやキバナコスモスの群生が咲き空も広くて気持ちがいい。ただ、そのスペースに見合った再現が外郭と門と橋、竪穴建物だけなのが少し寂しい。資料館ぽい所も土曜に行ったにも関わらず開いてなかった、残念。それでも、なんと言っても無料、気軽に散歩やピクニック気分で行くのがいいのかもしれない。
古の風を感じる事が出来た。館内で上映している「志波城物語」もなかなか見応えがあった。今度は、何かイベントがある時に来たい!
| 名前 |
志波城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
019-658-1710 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP |
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisetsu/bunka/kinenkan/1006834.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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紫波城跡です。古代の城柵の跡であり、平安時代まではここが日本の北限でした。かなりの広さの敷地ですが綺麗に整備されており、散歩も気持ち良くできそうです。