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名前 |
山本勘蔵(信供)の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
山本信供の墓信供は武田二十四将の人で、武田の軍師といわれた山本勘介晴幸の子として弘治二年(一五五六)、山梨県高根で生まれ、 天正三年五月、設楽原の戦いに二十才の若さで討ち死にした。信供らは、はじめ高坂昌澄らとともに、 長篠城監視隊として、寒狭川添いに備えていたが、武田勝頼本陣から全軍設楽原に集結し決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦した。しかしこの時すでに遅く味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で徳川本陣めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れた。戦後、守網は家康に話し、勝楽寺前に石を建て弔ったという、後に一石五輪塔がまつられた。