歴史に触れる高石垣の城跡。
徳倉城跡の特徴
中世の山城を改修した複合的な連郭式山城である。
残存する高い石垣が素晴らしい見所として人気だ。
永禄11年に宇喜多直家が関与した歴史的背景を持つ。
城跡北東側の広い路側帯に駐車できます。登城口を示す看板が道路沿いに出ており、川沿いの道の脇から登城できます。登城路を順に進むと、出丸跡?の分岐を曲り、矢竹の群生する曲輪を抜けて城域に至ります。岡山中世城郭館pdfの縄張の点線ルートとは違ってた感じでした。段々の曲輪の一番下側に出て、曲輪ごとに付いている階段を登って本丸に至ります。本丸東側の虎口は、野面積の総石垣といっても良さそうな位で想像以上でした。転がっていた石を見ると、深成岩のように見え、角ばっていて加工、積み上げしやすそうでした。中央にお社が有り、北側は二の丸の看板が建っていました。南側には内側にも石垣を備えた幅広い土塁が造成されてました。南側に降りると、本丸土塁南側にも立派な高石垣が築かれているのを確認できます。2つほど曲輪があり、周囲から切り立っていました。
県史跡の城跡です。登山道が整備されていますが、少し荒れています。石垣などとても立派で見学していて楽しかったです。
案内板がある登城口を少し登ると、竹藪が覆い道が無い! こういうのは百近く山城登城経験で初めてだ!仕方なく大手道へ向かい、沢筋を登る。プラスチックのブロックが階段として設置されていて、石積みよりは滑りずらく水はけが良いので他でも設置してほしい。尾根筋に来ると長い曲輪があり、次々に小ぶりの曲輪が出てきて山城の趣きが感じられる。最後の沢筋に来ると小さい井戸跡があり、今もたっぷりの水が溜まっていた。山城での井戸跡の確認は重要である。本丸下の石垣群は圧巻であった。山城でこれ程の石垣群が残っているのは非常に貴重であり、一部崩落が起こっているので何とか整備をしてほしい。
岡山県の調査報告によると中世の山城を大幅に改修して複合的な連郭式山城に仕立て上げられたと。堅固な防御施設が確認できた。4
石垣が、残っていたり、井戸もあり。木々の間から遠くまで、景色が見える所があります❗
城の規模は大きくないが石垣の残存度は素晴らしいです。
石垣がみどころ。
たどり着けなかった。どこから入ってどう歩けばいいのだろう?身の危険も感じるタイミングもありました。
大手登山道の手前の溺手登山道から登りました。結構大変でしたが、下りは大手の方だったので結構楽でした。でも大手の方は橋が壊れていたり溺手登山道よりも道が狭かったですが危険性は低かったです。溺手登山道の方は行く途中に徳蔵神社があって平成5年に出来たものでしたので結構綺麗でしたし、お社も立派でした。歴史マニア、城マニアにとっては1度は行きたい場所でしたね。それに大手登山道では、今まで登ってきた人達の杖?として使っていた枝がありましたので。僕も置いておきました(使っていた物を)それが一番太かったので安全に行けたのはこれのおかげなのかなと思いました。
名前 |
徳倉城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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徳倉城は標高232mの山頂に築かれており、麓からの比高は約170m程度である。片道約30分の登山道はあまり整備されておらず倒木なども多く正直歩きにくい。また遺構の案内板などもかすれて読めないものが多い。全体的に整備不足である。県の指定史跡なのだから岡山県にはきちんと整備を進めてもらいたい。しかし、山頂部の本丸周辺は石垣遺構がかなり残されており一見の価値がある。本丸下の高石垣、本丸南側の多聞櫓土台部分の石積は見事である。徳倉城は金川城を本拠とした松田氏配下の宇垣氏の居城であった。松田氏は宇喜多氏に滅ぼされ宇喜多氏配下の遠藤氏が城主となったが、関ヶ原の戦いで宇喜多氏が滅び、その後廃城となったようである。豊富な石垣遺構は織豊期に宇喜多氏によって改修されたものと考えられる。