有珠山噴火の記憶を刻む。
有珠山噴火の歴史の中で、文政5年(1822年)の噴火は、とてつもなかったとの記憶が残っております。この年の、1月19日の爆発から活動が続いて、2月1日の朝6時過ぎに大きな地響きと共に大爆発を起こしたかと思う間もなく、猛烈な熱雲が山肌に溢れ出して、疾風のように野を走り、アブタコタンを焼き尽くして一面火の海となったとのことです。甚大な被害があった中、当時場所請負人であった和田屋茂兵衛と、支配人をしていた妻の兄で善五郎、婿の松之助も被災し、その後間もなく息子の茂吉が建てたと思われる3名の墓石。噴火湾を望むとても眺望のいい場所なので、夏場はハイキングを楽しむ方や、近くにパークゴルフ場もあるので、賑わいを見せる場所です。
名前 |
和田屋茂兵衛の墓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
080-5594-2955 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
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説明板より→文政5年(1822年)1月19日の有珠山噴火は寛文3年(1663年) の噴火に次ぐ激しい噴火でした。研究者による犠牲者の数はいろいろですが100名前後の人たちと1,500頭近い馬が焼死しました。1月19日から断続的に噴火を繰り返していた有珠山は2月1日午前6時過ぎ大音響を起こし、 猛烈な熱雲(火砕流)が一瞬のうちにアプタコタン(現在のトコタン)を焼き尽くしました。人々は先を争って海に逃げ込み、そのありさまはまるで地獄絵図のようだったといわれています。死傷者は続々と善光寺に運ばれましたが、手当のほどこしようもなく次々に死亡してしまいました。虹田場所請負人の和田屋茂兵衛と婿の支配人松之助もまもなく絶命、翌2日には茂兵衛の妻の兄で支配人の善五郎も息を引き取りました。この3名の墓碑が廃村(トコタン)となった跡地に残っていましたが、道路の拡幅、 改修のときにこの公園に移されました。