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| 名前 |
藤崎城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
南北朝時代に北朝方の今川了俊の城として藤崎城がこの地にあった。九州は肥後の有力豪族で現在の熊本県菊池市にあった隈府城を居城としていた菊池一族の活躍もあり南朝勢力が強かったので、北朝方の藤崎城は菊池一族の出田秀信が建てた近くの南朝方の城 千葉城と幾度も戦をしていたと伝わる。ちなみに現在の加藤清正が築城した熊本城の縄張りは藤崎台(藤崎城があった場所)も千葉城があった場所も含まれる。観光客が藤崎台まで観にくる事は稀だが、熊本城マニアとしては是非とも足を運んでもらいたい。ただ藤崎台に来たとしても説明板も何もない。しかし藤崎台の地形こそがまさに藤崎城の痕跡なのだ。熊本城を築城した加藤清正は結果的に藤崎城と隈本城(古城)、千葉城の3つの城を有効活用し現在の熊本城の縄張りとして熊本城を築城したのだから藤崎台の地形の素晴らしさを堪能してほしい。ちなみに西南戦争の時の熊本城の戦いで激戦地となった段山の戦いは藤崎台の真下である。段山自体は現在は道路を造る為に削られてしまいないが、西南戦争の激しい戦いで当時まだ藤崎台にあった藤崎八旛宮も全焼している事から激しい戦いが繰り広げられた事が想像できる。ちなみにそれでも熊本城内に薩摩軍が侵攻する事は最後まで叶わなかった。藤崎台の地形が如何に攻めにくい地形だったのかが分かる。ちなみに藤崎城は永和3年(1377年)の記述に出てくるだけでその後、どうなったのか不明。同じ地にあった藤崎八旛宮は加藤清正が「朝鮮出兵から無事帰国できたら復興させる」との祈願をしている事からこの地にあった藤崎八旛宮は既にボロボロになっていたのは想像できる事から加藤清正がこの地にきた頃には藤崎城も既に破却されていた事が想像できる。近くにあった隈本城(古城)は現 第一高校の場所にあり加藤清正も肥後国守になってすぐに入城したのは隈本城だった。それまでは菊池一族の鹿子木氏や城氏が城代を任されていた。その後、九州征伐後に豊臣方の武将である佐々成政が短期間ではあるが入城したのも隈本城だった。藤崎台の真下に隈本城(現 第一高校)がある事から南朝方の鹿子木氏が隈本城を築城した頃には北朝方の藤崎城は攻め滅ぼされていたのではなかろうか?千葉城は高橋公園の近くの旧NHK熊本放送局があった場所にあったが、鹿子木氏が隈本城を築城するきっかけとなったのが千葉城が手狭になった為と伝わるので、隈本城が築城された頃には千葉城も既に破却されていた事になる。いずれにせよ、熊本城マニアなら藤崎台にも足を運んで周辺を散策してほしいものだ。