北面山教願寺の神秘探索。
北面山教願寺の創立に関しては不詳。明応年中(1492~1501 年)に回祿(かいろく 火の神。転じて火事で焼けること)。その後、僧侶の圓順(えんじゅん)が中興となり再建する。延宝 5 年(1677年)3 月、本尊木像佛及び寺号が本山より恵賜(けいし)され寺院となる。安永 3 年(1774 年)正月 8 日、再び類焼により焼失。安永 5 年(1776 年)、住職善鏡(ぜんきょう)が現在の場所に本堂を再建した。しかし、詳しい資料はなく不詳。一切は口伝による。元の場所は免山村の裏山であったとのことで、そられしき場所に『堂の上』と称する地名があり、その辺りに教願寺の本堂があったのではないかと推測されている。安永 5 年に善鏡により再建された本堂は老朽化し、平成七年の阪神淡路大震災で大きな被害を受け平成 10 年(1998 年)現在の本堂を新築。教願寺は、檀家の協力を得て過去から現在まで 4 回の再建・新築を繰り返している。綜合清溪村史(奥野慶治著 昭和 10 年編纂)に『寺子屋は明治五年の調査に依れば本田善恵、小泉恵教の二塾がある。塾主の身分は何れも僧侶であって習字読書であった』と記されてある。本田善恵は教願寺の住職で現在の本田了住職の曽祖父にあたり、天保 9 年(1838年)4 月 22 日の生まれ、安政元年(1854 年)に得度、同 6 年 2 月本寺の住職に就任し、明治25 年(1892 年)8 月 25 日に歿している。その間、明治元年(1868 年)より 2 年間、寺子屋を開いた。そのとき善恵は 31 歳であった。そして、善恵は漢詩を極め遺著として漢稿を一冊残している。また、池之坊流の華道の免許を得るなど才覚をそなえた文人であった。
名前 |
教願寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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傾斜地にあり、敷地はあまり広くありません。