二千百年の侘び寂び、天照の社。
新屋坐天照御魂神社(新屋神社/西福井)の特徴
二千百年の歴史を有する、新屋坐天照御魂神社は由緒ある神社です。
天照国照彦火明櫛玉饒速日尊を祀る神社で、特別な存在感があります。
静かな境内には日降丘という聖域があり、心が落ち着く場所です。
良い雰囲気の神社です。高槻に来た際にふらっと参拝しました。(2025.1.11)
新屋坐天照御魂(にいやにいますあまてるみたま)神社⛩御祭神は天照御魂神=天照国照天彦火明(あまてるくにてるあめのひこほあかり)大神、つまりは饒速日(ニギハヤヒ)命である。新屋郷と呼ばれていたこの地ではかつてより天照御魂神がお祀りされていたそうです。
大きい神社ではないが落ち着いた神社。神社の格式は生田神社より高いらしい。
二千百年の歴史を感じさせる侘び寂びのきいた雰囲気に包まれていた。また入口付近に咲いていたカンツバキが綺麗だった。
地元の方も来られてましたけど、私がついたときは誰もおられなかったのでゆーっくり参拝させていただきました。遥拝所がこんなにある神社は初めてでした。
新屋坐天照御魂神社(西福井)にいやにますあまてるみたまじんじゃ大阪府茨木市西福井3丁目36−1大阪府茨木市内に三社ありますあとの2社は大阪府茨木市宿久庄と大阪府茨木市西河原です3社あるうち当社が主たる位置を占めるみたいです祭神天照皇御魂大神天照国照天彦火明大神主神は天照国照彦火明大神(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)で物部氏、尾張氏の祖神です伊勢地方の地方神で後に天皇家の祖神の一柱となった天照皇大神は名前が似ていることと有名な為に持って来たと思われますなお天照御魂神社と称する神社は近畿地方のみにあるみたいです2021/2/24 参詣。
綺麗な神社。広い境内。車でも境内まで上がっていける。
落ち着いた雰囲気の神社です。色々な神さまを参拝でき鳥居も綺麗です。七五三もできます!オススメですよ。
◆― 祭神:天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 ―◆櫛玉(奇魂)とは知性のこと。第三代 天照大神◇萬幡豊秋津師比売の子で物部氏,尾張氏の神祖◆天照大神から大和建国の命を受け天璽瑞宝十種(十種神宝)を授かり、物部八十の大船団を率いて天磐船で河内国河上の哮ヶ峯に降臨された。◆萬幡豊秋津師比売は伊勢神宮の内宮に相殿神として主神の大日孁貴と合祀されており、大日孁貴が邪馬台国の卑弥呼に、萬幡豊秋津師比売が台与と比定されることから台与の息子と思われます。◆崇神天皇七年、西の丘山に饒速日尊の御魂が降臨された。饒速日尊の子孫である伊香色雄は勅命を受け、丘の頂を注連縄で張り巡らせ榊に御幣を掛けて奉斎した。景行天皇は饒速日尊を天照皇大神と称して皇女五百野媛に祀らせた。丘上にある日降丘の碑には「第十代崇神天皇七年秋九月 伊香色雄命、天照御魂大神 亦名 火明大神を此の丘に斉奉る」とある。
| 名前 |
新屋坐天照御魂神社(新屋神社/西福井) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
072-643-0139 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)。大阪府茨木市西福井。式内社(名神大)三座、旧郷社。単に「福井神社」とも称されるが、一般的には「新屋神社」と略称される。単位神社。主祭神:天照皇御魂大神 (あまてらすすめみたまのおおかみ、天照大神)天照国照天彦火明大神 (あまてるくにてるあめのひこほあかりのおおかみ)。江戸時代には牛頭天王を祭神としていたが、明治に入って、祭神を旧に復したという。資料によると、社伝によれば、崇神天皇の御代に神が当地に降臨し、同天皇の7年に伊香色雄命(いかがしこおのみこと)は、『記紀』等に伝わる古墳時代の豪族・物部氏の祖。饒速日命の六世孫)に勅して祀らせたのに始まるという。景行天皇20年には、この神を天照皇大神と称して皇女五百野媛に祀らせた。神功皇后の三韓出兵の際、当地の川原で禊をして当社を祀り、凱戦後に当社祭神の幸魂と荒魂を西の川上(宿久庄)と東の川下(西河原)に分祀したという。当社の裏山一帯に約30基の円墳からなる新屋古墳群があり(現在では10数基を残すのみ)、当社奉斎氏族(新屋連)との関連が指摘されている。上古の由緒は不詳であるが、中世以降は島下郡の総社として、摂津国守護や地頭を始め、庶民の崇敬を集めたとされる。大永7年(1527年)に兵乱の害を被ってから衰微したが、天正12年(1584年)、領主中川清秀によって再興されるとともに、その内室性寿院の発願により社殿等も造営されて以来、中川氏から崇敬され、同氏が豊後に転封してからも密接な関係を保ったようで、天保年間 (1830 - 1844) の社殿造替(現在の本殿がこの時のものである)に際しても同氏から寄進を受けた。明治5年(1872年)に郷社に列せられ、戦後は神社本庁に属さない単立神社となっている。とあります。参考として、延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座 並名神大 月次新嘗 就中天照御魂神一座預相嘗祭」として記載される式内社(名神大社)である。以下の三社が論社とされ、中でも西福井のものが中心的な神社とされる。新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西福井) - 旧郷社新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市宿久庄) - 旧村社新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西河原) - 旧村社上記の3社は互いに関連しており、西福井から宿久庄・西河原に分祀されたものとも、『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座」と記載されていることから、それぞれが1座ずつに対応するものともみられている。なお、社名にある「新屋」とは一説には「新野」を意味し、古代における新開拓地の意味であるとされる。別の説では主神の邇芸速日尊の名が訛ったものとする。『延喜式神名帳』には「新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大。月次新嘗。就中天照御魂神一座預相嘗祭」と記載されており、3座中の1座が天照御魂神であることが判明する。この「天照御魂神」ついては『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に、「奉授…摂津国…従五位下勲八等新屋天照御魂神、並従四位下」とある。 また『日本三代実録』同年5月26日条には「摂津国従五位下伴馬立天照神、伴酒着神、並授正五位下」とあるが、摂津国の「天照神」として知られるのは当社だけであり、天照御魂神は既に「従四位下」に叙されているわけなので、この「天照神」は残りの2座中の1座であり、「伴酒着神」が最後の1座であると推定できる。なお、それ以前、『続日本後紀』嘉祥2年(849年)12月15日条に「奉授伴馬立天照神、伴酒著神。從五位下」とあって、これは国名を欠くものの、神名と神階の両者から、当社の伴馬立天照・伴酒着2神に該当することが分かる。すなわち、本来の当社祭神は新屋(坐)天照御魂神 - 名神大社で月次・新嘗・相嘗祭に預る伴馬立天照神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預る伴酒着神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預るであったと考えられている。なお、神名の「天照御魂」から、本来は当地における太陽神信仰に基づく神社であったとの説がある。これは西福井の新屋坐天照御魂神社を中心に見ると、西河原・宿久庄はそれぞれ冬至における日の出・日の入りの方角に位置し、逆に西河原から見ると西福井は夏至の日の入りの方角に、宿久庄から見ると夏至の日の出の方角にあたっているために、そこから太陽神信仰を導き出そうとするものであるが、太陽神信仰はともかくとして、3社の位置関係をその信仰に基づくものとする点は立証性に欠けるものである。とあります。