歴史を感じる富田御坊。
浄土真宗本願寺派富寿栄山本照寺の特徴
歴史あるお寺で、1427年に創建された趣があります。
除夜の鐘をつくことができ、年末には多くの人で賑わいます。
富寿栄の松の跡地を有し、天然記念物の名残が感じられます。
歴史ある大きなお寺です。子供も楽しめる沢山の行事を行っておられます。境内もとても綺麗で心が落ち着きます。
開基は1427年、本願寺第七代存如上人と伝えられ当時は光照寺と公称していましたが、本願寺第13代を存如上人の弟養寿院良教が9代住職として入寺し、本願寺の本と下付され、本照寺と改称しました。良如上人から高槻御坊を付与され、摂津国に日講口中心的役割を担うことになり、さらに別付各別院として興隆を極めました。
1.富田御坊「富田御坊」富寿栄山本照寺。応永34年(1427)、本願寺7世の存如(ぞんにょ)またはその弟子・正信によって光照寺という寺名で創建。本願寺8世蓮如が吉崎より、本寺に移り、以後富田は本願寺門徒が集まり、寺内町が形成された。1646年、本願寺13世良如(りょうにょ)の弟、円従(えんじゅう)が入山し、本願寺の「本」の一字をもらい、「本照寺」と改めた。このとき、本願寺から「富田御坊」の印などが与えられ、これ以後、高槻と茨木の浄土真宗本願寺派寺院の多くを末寺とする「中本山」として、摂津地域の本願寺派の中心となり、隆盛をきわめた。北東にあった「筒井池(紅屋池)」に写る姿は、壮麗であった。2.浄土真宗との出会い浄土真宗の開祖親鸞聖人は、公家の日野氏の出身です。父親の死後、延暦寺に預けられたことが始まりです。一方、足利将軍家は、代々、将軍の正妻を日野氏から迎えていました。応仁の乱で知られる「日野富子」のように。足利義満が直轄領の富田荘の荘官に日野氏を任命したことから、浄土真宗との関りが生れたのです。3.NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に際して2020年度の大河は、「麒麟がくる」でしたが、ここ富田も舞台に上がりました。2020年11月から2021年1月は、「三好三人衆」や「松永久秀」、織田信長の「大坂本願寺攻め」が取り上げられていました。信長に対峙した一向宗(浄土真宗)は、「大坂本願寺攻め」を受けました。大阪の門徒(浄土真宗門信徒)の中心の寺であった本寺も、淀川対岸の光善寺とともに、「大坂本願寺」の列に近隣の門徒とともに加わり、信長と戦いました。その功績もあって、戦いの後、本山より「本」の文字を授かったとも言えます。「松永久秀」は、「大坂本願寺攻め」の陣から退去して、「信貴山城」に立て籠もります。そして、茶釜「平蜘蛛」とともに滅びますが、なぜ、天王寺砦の陣から退去したのかは、明らかになっていません。「松永久秀」は、近接の東五百住(ひがしよすみ)村の土豪で、東五百住に「屋敷跡」があります。東五百住には、本寺と関係深い末寺「利井常見寺」があり、当然、「松永久秀」は、一向宗門徒の線もぬぐいきれません。一向宗門徒であれば、「大坂本願寺攻め」の陣からの退去も理解できると思います。
山崎の戦い(天王山)の前夜、豊臣秀吉が宿したようです。その雄大、荘厳な佇まいは必見です。この界隈は古くからの住宅が狭く入込み、窮屈感が否めないだけに、本照寺の境内には、格別の静けさがあります。
除夜の鐘をつきに、約20年ぶりに伺いました。鐘をついた後は、おぜんざいや甘酒を焚き木の傍で頂けます。昔のイメージとほぼ同じで、広々とした良いお寺でした。
広くてお庭がきれいでした。
応永34年(1427年)に本願寺第7代法主・存如が建立。当初は光照寺と称した。高槻・茨木地域の同派本山であり、富田御坊ともいう。正保3年(1646年)に本願寺の一字をとり、本照寺に改名。山崎の戦い前夜には秀吉が本陣を張った。
黒松火鉢 👍🏾
歴史の趣きを深く感じさせて頂けます。歴史内容は、皆さんが語って頂いてますので、割愛させて頂きますね🎵
名前 |
浄土真宗本願寺派富寿栄山本照寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
072-696-0639 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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睡蓮の綺麗なお寺でした。