五代友厚の藍工場跡へ。
五代友厚製藍所・西朝陽館跡の特徴
あさが来たの五代友厚が設立した藍精製工場跡の碑です。
明治16年に閉鎖された歴史的な製藍所の跡地です。
五代友厚の足跡を感じられる貴重な史跡となっています。
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明治16年に閉鎖された五代友厚の造った製藍所。
「あさが来た」の五代様でお馴染みの五代友厚が起こした染色のための藍を精製する工場跡の碑。明治天皇が 大阪行幸したことの記念碑(聖躅碑)もあります。
名前 |
五代友厚製藍所・西朝陽館跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.3 |
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友厚(天保6年~明治18年、1835-85)は鹿児島県に生まれた。明治初年、大阪の経済が沈滞混乱の極みにあったときに、それを大きく発展させる牽引車的役割を果たした。彼は慶応元年(1865)ヨーロッパ諸国を視察、貿易に関心をもち一時官途につくが、大阪に来てからは鉱山・紡績・鉄道事業に手をひろげた。 当時我が国製の藍は粗悪で、インドからの大量輸入に頼っていた。それに対抗するため製法に研究努力を重ね、従業員300名を越す近代的製藍所を建設した。その製品は欧米各地に輸出され、明治10~11年ごろ最盛期を迎えた。しかし明治16年には、輸入品におされ閉鎖された。