歴史を刻む、釣鐘の響き。
釣鐘屋敷跡の特徴
17世紀設置の重さ3屯、高さ1.8メートルの鐘が音を響かせる歴史スポットです。
江戸時代に何度も焼失した経緯を持つ、貴重な文化遺産がここにあります。
釣鐘町という町名の由来にもなった、地域の歴史を感じさせる場所です。
12時に、近くで、鐘の音を聞きました。テレビで、見ましたが、間近で、一度行ってみては、日限地蔵院様の近くなので。
◽アクセス①谷町線/天満橋駅/南④:徒歩8分②京阪本線/天満橋駅/西⑪:徒歩7分◽上方落語紀行(北浜~天満~大手前~番場町)▪️青物市場跡碑 :「千両蜜柑」▪️天満橋 :「片棒」▪️天神橋 :「天神橋」▪️難波橋 :「遊山船」 「船弁慶」▪️大阪俵物会所跡 (史跡)▪️大阪証券取引所:「米揚げ笊」▪️花外桜(加賀井) :「禍は下」▪️天五平五十兵衛横丁 (史跡)▪️今橋 :「須磨の浦風」▪️高麗橋 :「百年目」▪️里程元標跡 (高麗橋東詰)▪️大阪銀座跡 (史跡)▪️釣鐘屋敷跡 (史跡)▪️東町奉行所跡 :「佐々木裁き」(番外編) 噺の舞台は西町奉行です▪️西外堀(城番場):「矢橋船」「初天神」◽「釣鐘屋敷跡」▪️1634(寛永11)年、3代将軍徳川家光が上洛の折、京より大坂へ下り大坂城に入城しました。▪️大坂三郷の惣年寄らが今市で出迎え酒樽や鰹節を献じ祝賀の意を表します。家光は大坂三郷の 「地子銀」 を永久免除することを約束したということです。▪️この恩恵を後世まで伝えるため釣鐘を鋳造し、町中に時を知らせることを決め釣鐘屋敷も建てられました。◽明治期以降の流浪の日々▪️1870(明治3)年、時報の役割が大阪城からの号砲に変わり、釣鐘屋敷も撤去さました。恣意的に徳川の痕跡を消し去ることこそが目的だったのではと・・・。▪️釣鐘は「長光寺」、「府立博物場」を経て1926(大正15)年より大阪府庁の屋上に保存されていたとのことです。さも、将門の首塚の如く!?▪️1985(昭和60)年、漸くにして今の地へ戻されました。
江戸時代に何度も焼失したそうです。その度に再建して明治初めまで2時間に一回、時の鐘としての役目を果たしていたそうです。そして1985年に復活した釣鐘の屋根を5つ輪にして、自主、自立、自由、活力、創造という大阪町人の精神を表現しているとのこと。
天満橋のオフィス街の真ん中でマンションの一角に在りその存続が危ぶまれている。今日は丁度昼の12時に鐘の音を聞けた、まあまあ風情があって良いものだ、伝統が有るものなら是非とも残して欲しい‼️釣り鐘も御も立派で大したものです此だけしかありませんが観光の名所の一つになってもおかしくない、実際に他府県に旅行した時にこれくらい小規模の名所は多々有るのも事実です。是非とも観光の名所にして存続して欲しいけど⁉️
「「報道ランナー」の取材で「兵動大樹」」が訪れていましたヨ❣️以上…
この人物が大坂町中時報鐘の窮地を救いました。
たまたまこの辺りを歩いていたら鐘がゴーンと鳴ってビックリ。平日の17:45頃から数回鳴っていました。鐘をついている人がおられなかったので、もしかしたら自動なのかも?!
特には変わったことはありません。
日限地蔵院に行く、ほんの手前に歴史を感じるスポットに出会いました。
名前 |
釣鐘屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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時刻を告げる為に使用された17世紀設置の重さ3屯高さ1、8メートルの鐘現在の場所に移転された、寛永11年(1634年)3代将軍家光が大阪城ヘ来た時、大阪町中の地子銀(固定資産税)の永久免除を約束したその恩恵に感謝して釣り鐘を造り町中に時を知らせた、この鐘楼は明治3年撤去され大阪府庁屋上に大阪町中時報鐘として保存されていた、昭和60年地元有志の努力によって再び元の釣り鐘屋敷地ヘ戻され、日に3回鐘の音を響かせている、現在の町名釣鐘町もこれによる。