大阪紡績発祥の地、歴史を感じる。
近代紡績工業発祥の地の特徴
大阪の紡績工業を日本一に押し上げた歴史的な場所です。
江戸時代には船着き場として多くの船が行き交った地です。
渋沢栄一や藤田伝三郎が関わった大阪紡績会社の発祥地です。
ここにあった大阪紡績(現在の東洋紡)は、大阪の紡績工業を日本一に押し上げただけでなく。沖縄の人々が出稼ぎに集まり、大正区が「リトルオキナワ」と呼ばれるきっかけにもなりました。
近代紡績工業発祥の地でありますが、江戸時代はその礎になる船着き場として、多くの船が行き交いしておりました。また、この近くには、その船員を目当てにした川口遊里で賑わっておりました。今は碑だけが残る閑静な住宅街になっております。
明治16年7月に、東京・大阪の実業財界人渋沢栄一(しぶさわえいいち)や藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)らが出資した大阪紡績会社(通称:三軒家紡績)が、当地「三軒家村」で操業を始めました。この大阪紡績会社は大正区の近代工業を飛躍的に発展 させ、大阪の紡績業 を日本一に押し上げる原動力となりました。 三軒家村は古くから 船着場 としてにぎわい、石炭や原料の綿花の搬入や製品の運搬 に便利なため選ばれたといわれています。 操業間もなく夜業を始めましたが、明治19年に発電機を購入し、初めてあかあかと電灯がともり工場全体が不夜城のように浮かびあがり、各地から電灯の見学者が殺到しました。工場はまたたく間に拡大発展し、業界に傑出した地歩を確立しました。 明治20年代には、当地を中心に数多くの紡績、繊維会社ができ、日清戦争から日露戦争時代にかけて大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるにふさわしい発展をとげました。 その後、大正3年、昭和 6年に他社と合併して 世界最大の紡績会社に発展しましたが、戦争激化とともに軍需工場に転換させられ、昭和20年3月の大空襲で焼失しました。
名前 |
近代紡績工業発祥の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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1892年の100名近く死亡した火災の慰霊碑とかもあるのかな。