蹉跎神社で御朱印と歴史体験。
蹉跎神社(蹉跎天満宮)の特徴
住宅街の中にあり地域に密着した神社です。
御朱印はご祭神の菅原道真公からいただけます。
地元では蹉跎という珍しい名前で親しまれています。
私が行ったときは、とても熱心にお詣りするおじいさんがいて地域の方に信仰篤い神社なのだと感じました。御朱印いただきました。
住宅街の中にある神社です。階段をると神社という作りで健足の方じゃないと登るの難しい?かも。お正月の初詣の参拝客がたくさんいる時は階段の下まで並んでいます。3月初旬ということもあり、梅が咲いてました。
枚方南部ではおなじみですが、蹉跎という変わった名前の神社。「足ずり」という意味で、菅原道真が左遷される途中で休憩したとされ、あとを追った刈谷姫が間に合わずあしずりをして悔しがったという由来の地名だそうです。今は鳥居から参道と本堂周りだけのこじんまりした神社。正月二日、コロナ禍で有名神社に行きにくいので、地元神社が混むかと思いましたが、参拝の列は十人程度と意外とすいていました。
地元の神社。
御朱印をいただきましたご祭神菅原道真公は平安時代の学者で文章博士となられ宇多天皇の信任が厚く右大臣に昇られましたが、左大臣藤原時平の策略によりて延喜元年(901年)正月、大宰権師として京の都より九州の筑紫(福岡県)にあった大宰府(大和朝廷の出先機関)に御左遷の途中、此の山にて休息せられ遥に京の都を望み名残を惜しまれたのち西へと旅立たれました。この休息せされた山を菅相塚と云います。都に残られた人々の中でも菅公が特に可愛がっておられました苅屋姫が別れを惜しまれて御跡をしたって此の地まで来られましたが、菅公はすでにご出発されました後でお逢いになれなかった。此の地で遥に西を望み蹉跎(あしづりすること)して悲しまれたのでその旧跡を蹉跎山と名づけられています。菅公は身の丈三尺二寸のご自身のご座像をお手づから作られましたものを村人が当山に社殿を造営し近郷二十有五個村の産土神(総社)としてお祀りしました。その後慶長一九年(一六一四)の兵乱に社殿は炎焼しましたがご神像のみ厳然とませましたので再建され中振・出口両村の産土神として奉祀されました。創建より幾多の変遷を経て明治五年より郷社に昇格明治二十二年三月社殿を改築し明治四十年八月府告示を以て幣饌料供進社に指定され今日に至っております。参拝案内記より。
大宰府に流される菅原道真と道真を追いかけてきたその娘とに関係のある神社です。第二鳥居から参道の階段を登ると、灯篭が並んでおり、その先に本殿が見えます。それほど大きくはないですが、趣のある神社です。
中振、出口地区の氏神様です。別名は蹉跎山天満宮とも言います。御祭神は菅原道真公で、都から太宰府へ左遷された際に後を追った娘の苅屋姫が父に追いつけず足摺り(蹉跎)をして嘆いたのが名前の由来です。摂社に皇太神宮、金比羅神社、春彦神社、稲荷神社があります。
| 名前 |
蹉跎神社(蹉跎天満宮) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
072-831-1550 |
| HP |
http://osakadai3shibu.kilo.jp/jinja/hirakata/jinja/sada.html |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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この日は神事の中、御朱印を書いていただけました。参道石段の手前に社務所があります。コンパクトな神社ですがいかにも地元密着型って感じでした。