歴史を感じる静かな聖地。
添御縣坐神社の特徴
境内が美しく整備され、清々しい気持ちになりそうです。
聖武天皇の視察にも関わった、歴史深い神社です。
芸能人神様が参拝する、特別なパワーを感じる場所です。
本殿は永徳3年(1383年)の建立であることが分かり重要文化財です。御祭神は建速須佐ノ男命、武乳速之命、櫛稲田姫之命です。武乳速之命は天児屋命の別名とされ、『新撰姓氏録』では津速魂命(中臣氏の祖)の子で添県主の祖とされています。また一説によると祭神のうち武乳速之命の実名は大和朝廷に抵抗した長髄彦とも言われているそう。歴史のロマンを感じる古社です。車で訪問される際は周辺は住宅地かつ細い登り坂になりますので運転にはくれぐれもご注意を。神社入口から坂を上がった神社正面左手に数台停められます。
添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)631-0802 奈良県奈良市三碓3-5-8祭神:建速須佐之男命、武乳速之命、櫛稲田姫之命律令体制国家以前から朝廷の直轄地として県(あがた)があった、大和国には六御県(六つの県)=添郡、高市、葛木、十市、志貴、山辺があった、添御県に在る神社と云うことで「添御県坐神社」と称されている。しかし、ここは超古代から聖地として祀られていたのであろう・・三碓(みつからうす)と云う地名の起源は根聖院の境内にある三連の窪みのある石からとされている・・これは超古代の巨石文明の名残か?当地、当社の口伝によれば、武乳速之命=ナガスネヒコとされている・・神武東征による大和平定の際に「長髄彦」は再蜂起を図る民衆を説き伏せた上で自害した、これを惜しんだ民衆が当地にその霊を祀ったのが「添御県坐神社」鎮座の起源と云う。従って富雄丸山古墳の被葬者は「ナガスネヒコ」と考えられる、今回発掘された、最大の蛇行剣・鼉龍文盾形銅鏡・青銅鏡その他は長髄彦命の「神器」であり、それを守り抜いた「人」の墓からの出土であろう。時代順に: 注・人名は役職名?① 大和には大神神社(大物主命)がいた② 卑弥呼の時代(AD147~AD248)③ 卑弥呼死亡 AD248(9/5=日蝕)④ 壱与が卑弥呼の墓(前方後円墳)を造る AD266⑥ トミノナガスネヒコの死亡⇒富雄丸山古墳?饒速日命=物部氏の祖先は創作神話?⑦ 三輪氏が諏訪へ逃亡⑧ タケミナカタ・トミが三輪氏の要請で諏訪に遠征⑨ 出雲(帝国)滅亡。
近鉄富雄駅からバス(三碓で下車)と徒歩で10分、帰りは歩いて20分弱くらい(私は足が遅いです)でした。小高い丘にあり空気が澄んでいてとても心地よいお参りができました。駐車場は4台くらい停められそうでした。古代はどんな景色だったのだろうと思うと妄想がとまらなくなりそうな素敵なお宮さんでした。
少し離れて見て見ると小高くなった場所が神社のようです。境内は広くはありませんが歴史があり参拝する方々が沢山おられました。参道を通って駐車場に停めますが駐車できる数が少なくお祭りなどの時は停められないでしょう。
そうのみかたます神社と読むのですね😁私の解釈ですが。総て御方の座する神社ですかね。決して祀るのでなく会話しにいく感じで私は今度行きたいです😖因みにもう一般人だと思ってます🙏生駒郡の前がそう郡のそう上町(総神?)とは。蒼天もそう言う意味があるのですかね🙏
境内がとても美しく整備されていて、清々しい気持ちになります。特に敷石が美しかったです。踏んで進むのが畏れ多いくらい。南北朝時代の本殿も風格があります。隣のお寺の梵鐘が自動鐘つき機で鳴っていたのにはびっくりしました。
これぞ、地域の氏神様という神社です。コロナの影響でお祭りができていませんが、収穫祭の時期には毎年たくさんの人が出店に集います。ブルーハーツのドラムの人が普通に来て演奏してくださるという、訳のわからんサプライズがあります。すごくないですか??
毎年、地元の氏神さまへ初詣に行きます。破魔矢を買って、去年一年間、大病せず、元気に過ごせた事への感謝と家族の健康、交通安全、祈願成就を願います。除夜の鐘も毎年つかせてもらいます。ありがたや。
安らげる場所。
| 名前 |
添御縣坐神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0742-43-1428 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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2年振りのお参りです。ナガスネヒコを辿ってました。その残像感じるお宮です。