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宿久郷・宿久村の地に中世宿久庄が成立し、後に村名になりました。文禄3年(1594)の大田郷宿久庄検地帳によれば、高1523石余という、非常に大きな石高の村で、近世前期までは、清水村も含めて、宿久庄村と称したようです。この宿久村に、侍分もいて、文和元年(1352)の芥河・真上両氏を中心とした北摂国人一揆に、宿久信光が加わっており、南北朝期を経て、古くから活動が見られます。地元の伝承では、このあたりが城跡であったとの事です。日本城郭全集大系・日本城郭大系にも取り上げられていないのですが、奈良興福寺大乗院の門跡尋憲が記した日記『尋憲記』には、元亀2年8月29日条に、宿久城を始め、高槻・茨木・佐保城が落ちたと、書き留めています。宿久城の落城は、この時にこの付近で行われた、白井河原合戦(郡山合戦・宿久河原合戦など)によるものです。また、宿久庄には丹波猿楽三座の一といわれた法成寺座があり、同寺が焼亡してしまった後も、御香宮(京都市伏見区)や各地の社寺・権門に雇用されて出演していました。【出典:大阪府の地名1】※伝摂津宿久城の写真は2002年撮影。