日比谷門が語る歴史の足跡。
日比谷門跡の特徴
日比谷門は中世に日比谷村があった由来を持つ貴重な史跡です。
江戸城攻防戦の重要地点として歴史的に意味のある場所です。
日比谷公園内には長門毛利家や陸奥伊達家の上屋敷が存在しました。
元々日比谷交叉点附近にあったが、日比谷公園開園時に移設したらしい。江戸城を警備する詰所が見附で出入りする門は御門。日比谷見附を兼ねている。
有楽門から園内に入るとすぐに見ることができます。きれいに石組み(石垣)が残るところと、経年のせいか石組みが崩れてしまっているところがあります。両方とも歴史を感じさせられます。真東の「日比谷交差点」にあったものが公園建設時に移設されたそうです。
江戸城内曲輪門丸の内側は内曲輪、霞ヶ関川は外曲輪とハッキリ分かるように丸の内側にだけ石垣を構築西軍大名だった外様大名の屋敷を日比谷門外に配置その門を築かされたのが門外側に面する陸奥伊達家というのが家康の意地悪なところ伊達家はその後外曲輪からも追い出されて汐留に屋敷を移される、これほど冷遇された大名も珍しい日比谷門には橋がなく江戸城攻防戦の際には徳川将軍家軍が討って出る為の場所でもあった日比谷門の枡形開口部は南側と西側となっており江戸に攻め入った西軍は枡形に入ると江戸城に背を向けて進むような仕掛けになっている日比谷公園には長門毛利家、陸奥伊達家、肥前鍋島家などの大大名家の上屋敷があった伊達家はのちに汐留に移転、跡地には亡くなった将軍家の側室の軟禁屋敷があった長門毛利家も幕末に朝敵とされると屋敷は没収される。
実際の日比谷門は、今の日比谷交差点付近にあったそうです。
| 名前 |
日比谷門跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。1614年(慶長19年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広によって石垣が築造され、1628年(寛永5年)に仙台藩(現在の宮城県)落主伊達政宗によって門の石垣が構築されました。日比谷門は現在の日比谷交差点付近にありましたが、1873年(明治6年)に撤去されました。現在の日比谷公園の心字池沿いの石垣は、日比谷門と山下門の間にあった土手の名残りです。日比谷門Hibiya-mon Gate「江戸城写真帖」1871年(明治4年)撮影東京国立博教館蔵TNM Image ArchiveThe name of this gate is derived from the fact that Hibiya Village was located in this area.Stone walls were built around the area by the feudal lord of Kumamoto Han (now Kumamoto Prefecture), Kato Tadahiro, in 1614; and Date Masamune, feudal lord of Sendai Han (now Miyagi Prefecture), constructed the walls of the gate in 1628.The Hibiya-mon Gate was located near to Hibiya Crossing, but was demolished in 1873.The stone walls that currently remain alongside Shinji-ike Pond in Hibiya Park are those left from the embankment between the Hibiya-mon Gate and the Yamashita-mon Gate.