織田信長が築いた二条城の歴史。
二条殿跡の特徴
織田信長の築城した二条城跡地があり、歴史を感じる場所です。
本能寺の変の舞台として知られる、信忠の籠城した地です。
誠仁親王が所有していた、庭園が素晴らしい邸宅跡があります。
紫式部の「源氏物語」の二条院散歩源氏が住む二条院が何処にあるかは、「賢木」で六条御息所とその娘である斎宮が伊勢へ下向する風景を描いた中にある。六条御息所とその娘である斎宮の一行が内裏での挨拶を終えた後、二条より東洞院の大路を折れ給ふほど、二条の院の前になる、と書かれている。内裏の儀式に出席しなかった源氏が住む二条院の前を通り過ぎたことが描かれている。二条通りの南、東洞院通り沿いに二条院があることが分かる。写真は、平安時代の平安城地図にある二条殿とそこに対応するGoogle Map。昔はこの辺に貴族の館が立ち並び、二条殿の近くには在原業平の屋敷もあったことが分かる。また、室町時代には、足利尊氏邸もあった。二条殿から東洞院通りを南に下ると六角堂がある。
織田信長ゆかりの地マンガミュージアムの西に有る。
説明文とかあるとよかったのに。
本能寺の変の際、嫡子信忠が籠城し最後を遂げました。今は案内碑が残るのみです。
二条城と言われているものは、3箇所あります。一つは、旧二条城と言われて入る足利義昭の政庁として、織田が建てたもの、二つ目は、二条古城と言われる二条殿で織田信長が京都の居館に使用したもの、3つ目は、徳川が作った現在の二条城です。旧二条城は、公家の二条良基の邸宅のあった場所を1569年信長は350メートル四方に拡大し、二重の彫りや三重の天守の🏯城をつくりました。毎日15000から25000名の人員で70日で作られました。キリスト教宣教師のルイス、フロイスによりますと、石の不足から石仏や五輪塔などを砕き使用したと書き留めています。また、法華宗本山の本圀寺を解体し、木材」調度品を使っています。1573年義昭追放のあと東宮誠仁親王が入られて二条御所と言われていました。室町幕府解体の後1576年解体し、その木材の一部は安土城🏯に使われています。地下鉄烏丸線の工事の時に一部の石垣がでています。今も地下に保存されていますが、一部は、隣にある京都御苑の南西角ともう一つは、現二条城の西面に復元されています。烏丸線の丸太町駅で降りて🚉京都平安女学院中学校、高等学校、大学の北角に石碑がたってます。丸太町二条古城は、織田信長の居宅です。二条殿ともいわれています。最初二条良基の居宅があり、それを調度し、信長の京都の居宅に使っていました。1579年旧二条城が解体されたので、これを誠仁親王に住まわせています。1582年の本能寺の変のとき、信長の長男信忠は妙覚寺にいましたが、変を知り、父信長助けに行こうと近くにある二条古城に入り自刃しています。烏丸前線の御池駅降りて御池通り西入る最初の通両替町通りん右折し、京都国際マンガミュージアムの裏口にその石碑はたっています。
本能寺の変にて織田信忠が籠城した二条城跡になるが石碑のみで寂しいものです。
織田信長が、2度目に建てた二条城跡地2つ目の二条城跡地。
織田信長が庭の眺望を気に入り、公家の二条家の邸宅を譲り受けて、村井貞勝(京都所司代)に命じて改修させ、京に滞在中の宿所として織田信長が築城。のちに皇太子・誠仁親王に献上したため「二条新御所」とも呼ばれる。「本能寺の変」では、信忠(信長の嫡男)が籠城したのはこの二条古城。信忠は隣接する妙覚寺からこの城に移ったが、妙覚寺とともに焼けた。遺構はなく、石碑が建っているのみ。
石碑のみ。織田信忠の籠もった二条城は遺構もなく、こうした石碑だけが静かに歴史を伝えてる。
名前 |
二条殿跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na094.html |
評価 |
3.3 |
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この辺りに妙覺寺がありました。織田信長公は、京都に二十数回上京するたびに、ほぼ此処を常宿にしていました。それは、義父である斎藤道三が妙覺寺と縁が深かったためのようです。本能寺に泊まったのは、僅か三回だそうです、三回目が有名な本能寺の変でした。その後に、明覺寺は、秀吉の京都復興政策により、京都の北の守りを固めるべくこの地に移築されました。