古刹添御県坐神社で歴史に触れる。
添御縣坐神社の特徴
添御縣坐神社は長屋王の歌碑があり、歴史の深みを感じる場所です。
菅原道真公が安全を祈願した歴史ある古刹です。
地元の人々に大事にされている神社で、毎月集まる行事があります。
参道の灯籠が印象的です。こじんまりとした境内ですが落ち着きがあり素敵なお宮です。
奈良県奈良市に鎮座する添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、古代に起源を持つ由緒ある神社です。地元では「三碓神社(みつがらすじんじゃ)」とも呼ばれ、親しまれています。この神社は、古代に遡ることができる歴史を持ち、一説には初代・神武天皇が戦ったとされる豪族の長・長髄彦(ながすねひこ)を祀っているとも伝えられています。また、代々の天皇の食膳に野菜を献上したとされ、都の豊穣を司ってきた歴史も持っています。ご祭神は、建速須佐ノ男命(たけはやすさのおのみこと)、武乳速之命(たけちはやのみこと)、櫛稲田姫之命(くしなだひめのみこと)の三柱です。添御縣坐神社は、歌姫街道をゆく旅人の守り神としても知られ、地域の人々からはもちろん、訪れる人々にとっても心の拠り所となっています。静かで落ち着いた雰囲気の境内は、訪れる人に安らぎを与えてくれます。例祭は10月第三土曜日・日曜日に行われ、多くの参拝客で賑わいます。古代の歴史と豊かな自然に囲まれた添御縣坐神社は、訪れる人に静寂と安らぎを与えてくれるでしょう。
奈良市三碓町にある添御縣坐神社と、延喜式内の論社の一つです、、御県の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記されています。当神社は、大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置します。そして、大和から歌姫越えて諸国へ旅をする際に、国境に鎮座する手向けの神として尊崇されていました。万葉集に左大臣・長屋王の詠んだ次の歌があります。佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞこの歌には、大和と山城の国境の神添御懸座神社を拝し、旅の安全を祈念したものと考えられます。当神社は、格のある式内社・御県社の一つとしてだけでなく、農の神、旅の神として崇敬されてきました。江戸時代には「午頭天王社」「八王子社」として、除災・治病の神としても信仰されてきました。ご由緒下記より。
人に会うこともなくとても静かな境内でした。新大宮方面から徒歩で50分ほど。神社付近に車は停める場所がなく、道は離合が大変、とても狭いです。路線バスもありますが、大和西大寺から1時間に1本か、全くない時間帯があり、バスの時間に合わせるか、運動がてら歩きか、自転車がお勧めです。歌姫の集落に入ると、立派な門構えの古いお屋敷が並び、となりのトトロに出てきそうな自然もあり、奈良公園周辺の観光とは違い、すごい裏観光ができた気分です。ただ、知らずに車で入りこむと、出られなくなるような、途中で道がなくなるような所ばかりです。
かつては奈良~京都へ行くのに旅の安全を祈ってお詣りした神社と思うと感無量です長屋王の歌碑もあって歴史の深みを感じます。
静かな奈良を感じられる場所です。東大寺学園の近くです。
この神社の前をよく車で通りますが、ちょうどこのあたりで道が狭くなっています。わき道に入って何とか車を停めようとして農道のような狭い道で怖い思いをしたこともあります。まさに地元の方のためにある道路。それが「歌姫街道」です。以前からこの式内添御縣座神社は気になっていて何とか参拝したかったのですが、何せ車が停められません。その割に車は前から後ろからひっきりなしにやってきます。今回、やっと参拝できました。先週、三碓にある式内添御縣坐神社も参拝しました。同名の縣神社ですが、こちらの神社を「歌姫の社」と呼ぶこともあります。どちらがどうとかは分かりませんが、この地域を開拓した人たちによって祀られていた古い信仰の場所でしょう。境内は静かで穏やか。少々走り気味に本殿で参拝し、由緒書きのプリントを頂き帰りました。
毎年元旦はここです。ご利益バンバンあります。宮司さん家族さんがやさしいです。
この字を読める人は少ないのではないでしょうか(笑)小ぶりながら歴史のある神社さんのようです。
| 名前 |
添御縣坐神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33414 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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添御県坐神社(そえのみあがたいますじんじゃ)歌姫町。奈良市歌姫町。式内社(大)、旧社格不明。【祭神】速須佐之男命 (配祀)櫛稻田姫命 武乳速命(たけちはやのみこと、天児屋命の別名)【関係氏族】添県主 小野氏資料によると、大和国の六つの御県の一つ、添御県に祀られた神。亨保9年(1724)には八王子社と称していた。もとはいまより少し南に東向きにあったが、郡山藩主の参勤交替に社前を通のは恐れ多いとのことで現地へ遷。明治7年(1874)には垂神天皇・日葉酢姫命を祀っていた。叢林有り。石灯の多い神社である。大和国の六つの御県の一つで、添御県に祀られた神で、恐らくは、その国魂神を添県主(姓氏録・旧事本紀に津速魂命男武乳遺命の末裔)がまつていたものであろう。「武乳速命」は添県主の祖である「武乳遣命」と同一と思われ、恐らく式内社の論社とされて以降に祭神に加えられたものと思われますが、式内社「添御縣坐神社」は本来は専らこの神が祀られていたと考えられます。この地は平城京の真北にあたり、平城京から当社の脇を通る歌姫越えはかつて山城国へと通じる主要な街道だったとされています(後に大和国と山城国を結ぶ主要な街道は東の奈良坂越えに移る)。「歌姫神社」とも呼ばれている。境内に2つの歌碑がある。佐保過ぎて奈良の手向(たむけ)に置く幣(ぬさ)は 妹を目離(めか)れず相見(あひみ)しめとそ 万葉集 巻3-300 長屋王このたびは、幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに 菅原道真とあります。