古代のロマン、能褒野神社で。
能褒野神社の特徴
ヤマトタケルノミコトのお墓がある神社で歴史深いスポットです。
能褒野王塚古墳に隣接し、古代ロマンを感じる場所です。
美しい樹木に囲まれ、静寂の中で心の安らぎを得られます。
日本武尊さんが祀られる神社で、とても波動が心地好い一の宮巡りをするといつも予想しなかったいい出逢いがある感謝!
明治時代に創建されたと云うがなかなか落ち着いた雰囲気です…お墓への道には倒木が…日本武尊はもっと再評価されて良いように思います。
昼間に訪問しました。御祭神は日本武尊で、墓所があります。とても静かな境内でした。アスファルトの駐車場(5台分程)ありました。訪問時、社務所は閉まっていました。
神社には第二駐車場を通り越した突き当たりに無料駐車場がありましたので、そこに車を止めて歩いて行きました。御墓に行かれるのであれば第一駐車場の方が近いです。参拝に訪れた時は他に人が居らず、とても静かでした。明治12年10月、宮内省が丁子塚古墳を日本武尊の御陵と確定明治16年12月、神宮斎主久邇宮朝彦親王より能褒野神社と社號の選定があり、次いで有栖川宮、山階宮、小松宮、伏見宮、北白川宮、閑院宮、梨本宮、華頂宮より金幣が寄せられる翌明治17年3月、神社創立の許可を得て社殿境内の新設に着手明治28年10月、創立事業が完了し御鎮座祭が催行明治41年、延喜式内社である縣主神社、那久志里神社、志婆加支神社はじめ村内の40余社が合祀されています。日本武尊を主祭神とし、建見児王、弟橘姫命、御食津神、大穴牟遅神、長白羽神、瀬織津比賣命、天照大御神、伊邪那美命、大八洲之霊、玉依比責命、品陀和気命、建速須佐之男命、玉柱屋姫命、金山毘古命、息長帯比賣命、木花咲耶姫命、久那斗神、八衢比古神、八衢比賣神、奥津比古神、奥津比賣神、火乃迦具土神、倭姫命、天児屋根命、天布刀玉命、菅原道真公、柿本人麻呂公、大雀命、大山津見命、速玉乃男命、大事忍男神、猿田比古命の三十三柱がお祀りされています。拝殿横の那久志里神社には日本武尊と弟橘姫命の深い絆をあらわす連理の榊の案内板がありました。ただ手水舎と拝殿の間には真新しい連理の榊があり、話を聞こうと社務所に行きましたが不在で分からずじまいでした。那久志里神社には社号標と鳥居があり山神と水神が祀られています。一書、那久志里神社の御祭神は長白羽神、瀬織津姫命。この二柱に関連してくるのが天白信仰また天白信仰の南限である南勢には、日本武尊の叔母で伝承上の斎王で叔母の倭姫その倭姫の元伊勢伝説となる巡幸地の一つに鈴鹿小山宮・後の忍山神社この忍山神社で生まれたのが弟橘姫(オトタチバナ)日本武尊でオトに関係するのは、天火明命11世孫の尾張国造・乎止与命(オトヨ)、その娘宮簀媛命は日本武尊の妃倭姫、宮簀媛に共通するのが天叢雲剣、2人ともこの剣を祀っている天叢雲と言えば倭姫の巡幸地の一つ、元伊勢籠神社の天火明命と奥宮眞名井神社の天の眞名井の水の伝説に纏わる天叢雲命の話この水を倭姫が遷されたと伝えられているのが、伊勢の外宮にある上御井神社の井戸自ら軽んじて置いていってしまった天叢雲(=天火明系統)により伊吹山の荒ぶる神の討伐で、伊吹山の麓、金山彦大神を祀る南宮大社の加勢もなく、瀕死の重傷をおった倭建尊(ヤマトタケル)が向かったのは天叢雲の力を持つ本当の妻、倭姫(ヤマトヒメ)その為、日本武尊が本当の事を知ってしまいそれを良しとしない勢力が畿内から伊賀を通り伊勢の地に進軍してきた為、倭姫と天火明の地を守る為、鈴鹿を絶対に通さないと死力を尽くして力尽きた場所が能褒野の地そこで亡くなられ白鳥となって飛び立っていったのは、天叢雲剣を持って東征を行った国、日高見国。そこには日本武尊伝説と天白信仰が残っている一つの伝説として聞いた事がある話ですが、こちらの神社には合祀された那久志里神社の社号標が残り、山神と水神がただ静かに御鎮座されています。
ヤマトタケルノミコトのお墓があると言われている神社。入り口の鳥居から本殿までも風情があって好きですが、駐車場の近くに鯉のいる池があったり、トイレの場所も分かりやすいので、子連れで初めて訪れても安心です。ただ、石畳の目が大きいので小さい子を連れて行くなら手を引いてあげたほうが無難だと思います。
能褒野神社(のぼのじんじゃ)は三重県亀山市田村町の安楽川中流の小丘に鎮座する神社で能褒野王塚古墳が隣接しております。ご祭神日本武尊(やまとたけるのみこと)旧社格は県社。『古事記』や『日本書紀』によると、日本武尊は能褒野で死去したと伝わっており、一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったが、明治12年(1879年)に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定された。(2022/9/13撮影)
大鳥居から本殿までの参道の木々が素晴らしくとても優しく鳥の声もとても癒されました。本殿内もとても綺麗で余計なものが無くとても温かみのある雰囲気でした。
日本武尊様が祀られている神社です。多くの方々が参って下さる事を願います。
能褒野(のぼの)神社由緒書きにもある様に明治44年に建立された比較的新しい神社です。社殿は神明造りで千木は外削ぎ、鰹木は5本の奇数で外宮系の様式となっています。隣接する日本武尊の墳墓より祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)諸説ありますが東方征伐し奈良への帰りに伊吹山で致命的な怪我をしてこの地域で息絶えたとされてます。日本武尊を祭神として祀る加佐登神社の建立の方が古い事を考えると白鳥古墳で日本武尊は力尽き亡くなり、その時身に付けていた笠と杖がその地に残されたのではと。遺体は弟橘媛の出身地であるこの地に親族の手で埋葬されて伝承として伝わっていたのが近年の明治12年になって宮内省が日本武尊の墳墓であるという見解をしめし、能褒野神社創設のキッカケとなった。そうすると加佐登神社とこの能褒野神社との関係が成り立つと思います。
| 名前 |
能褒野神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0595-85-1533 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=3036 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
能褒野神社(のぼのじんじゃ)。三重県亀山市田村町。旧県社。合祀式内小社(鈴鹿郡)那久志里神社\tナクシリノ志婆加支神社\tシハカキノ県主神社\tアカタヌシノ主祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)配祀神:建貝児王(たけかいこのみこ) 弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)資料によると、『古事記』や『日本書紀』によると、日本武尊は能褒野(能煩野)で死去したという。墓は『延喜式』諸陵寮にも「能襃野墓」と見えるが、後世に所在不明となった。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったが、明治12年(1879年)に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定された。その後、地元の有志により日本武尊の遺徳をしのぶため能褒野陵周辺での神社の創建が企画されたのが、当社の淵源になる。明治16年(1883年)に神宮祭主・久邇宮朝彦親王より「能褒野神社」と社号が選定され、明治17年(1884年)3月に能褒野陵の側に神社創建の許可を得、有栖川宮その他の宮家から幣帛料をたまわった。明治28年(1895年)に社殿が竣工され、神宮祭主・賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴して鎮座祭がとりおこなわれた。明治42年(1909年)には元小天宮祭神の弟橘姫と県主神社祭神の建貝児王が配祀され、さらに近隣の約40社(式内・那久志里神社、式内・志婆加支神社を含む)が合祀されたうえで、近代社格制度において村社に列した。その後、大正14年(1925年)6月に県社に昇格した。とあります。