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南北朝時代(一三五〇年頃)、足利尊氏たちの北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれて対立していました。吉野にれた後醍醐天皇の女官「なか媛」は天皇が亡くなると、南朝に味方していた人を頼って各地を販々とさまよいました。その頃、信濃の飯田にいた宗良親王が征夷大将軍として南朝をまとめようとしていました。これを知ったなか媛は三十五名ほどの家来と共に彼のもとに行こうとされ、玉野川(今の庄内川)を船でさかのぼり、途中、玉野の南屋敷で一夜を明かすため、旧家に入り込みました。これをひそかに見張っていた北朝軍が聞討ちを仕掛け、家来は次々に討ち取られてしまい、なか媛も無念の最期を遂げました。逃げのびた二人の家来が、その後、玉野に舞いもどり、ひそかに農民になって、なか媛やうたれた家来たちの霊を慰めたといいます。三十五名の位牌は大平寺に安置されています。