平塚の歴史を刻む、戦争遺跡。
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名前 |
旧海軍火薬廠柵 |
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ジャンル |
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住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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評価 |
3.0 |
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平塚の北部に、かつて徳川家康が鷹狩りの際などに逗留した中原御殿があった当時御殿から南の東海道まで遮るものは何もなく、防衛上の観点から1601年、御殿の周辺に「中原御林」が造成された幕府直轄の御林は明治政府に引き継がれ、この広大な官有地に1905(明治38)年、ノーベル爆薬社やアームストロング社などイギリス3社の合弁会社として設立された「日本火薬製造株式会社」の工場が建設されることになった1919(大正8)年、当初からの契約に基づき日本政府が会社を買い取り、同年より「海軍火薬廠」として爆薬・火薬の製造や研究を始め、昭和19年の時点で従業員は徴用工や動員学徒含め8500人が働いていた1945年7月、一夜に投下された焼夷弾の量としては国内2番目という平塚空襲で壊滅的打撃を受け、戦後廃庁地図上のイチョウ並木通り(伊勢原道)より北が当時の火薬廠の敷地となり、高等官舎である東官舎が建っていたこのコンクリート製の柵は、同じく火薬廠内にあった海軍共済病院(現・平塚共済病院)と東官舎の境界に設けられていたもの軍都としての平塚の姿を伝える貴重な戦争遺跡として、大切に保存していってもらいたい。