歴史を感じる北畠神社の庭園。
北畠神社の特徴
多気北畠氏城館跡に位置し、国指定の史跡です。
初代伊勢国司を祀り、歴史深い神社です。
美しい庭園と共に、静かな癒やしの空間があります。
続日本百名城🏯 多気北畠氏城館1️⃣多気御所【北畠氏館跡】松阪市側から行くと、とても国道とは思えない難所を越え、たどり着きます。5年前と変わらない。こんな山奥から伊勢を支配できたのか?と思う場所に多気御所はありました。
お墓参りから足を伸ばして美杉までそんなに大きな神社さんでは無いけど歴史があり良き神社さん。
南北朝時代の名将・北畠顕能(あきよし)公を主祭神として祀る神社です。北畠顕能は嘉暦元年(1326)に南朝の重臣、北畠親房の子として京都で生まれました。10歳の頃、建武の新政が崩壊し、南北朝動乱の幕開けると、父・親房とともに南朝の後醍醐天皇に従い、京を離れて伊勢に下向しました。翌年、伊勢国司としての任務を父から引き継ぎ、多気御所(当社)を拠点に、現地統治に関わるようになっていきます。幼少ながらも、父とともに政務を取り仕切り、現地の豪族や民衆の心をつかんで連携を築き、伊勢における南朝の柱石となっていきました。伊勢国は「京」と「東国」の間にある戦略的要地で、10代の終わりから20代にかけて、顕能は戦にも出陣し、各地で奮戦しました。とくに父・親房が常陸に赴いたあと、顕能が伊勢の防衛を任されるなど、若くして軍事指導者としての役割を果たしていたとされます。南朝と北朝(足利尊氏)の戦いが激化すると、伊勢も戦場になりました。正平3年(1348)、四條畷の戦いで楠木正行が戦死すると、南朝は劣勢となりました。顕能は伊勢で兵を集めて反撃の準備を進めます。正平6年(1351)、南朝と足利直義との抗争(観応の擾乱)を利用し、京都を一時奪回し、顕能も伊勢から出陣してこれに協力しました。翌年、再び京都を奪還し、後村上天皇を奉じて上皇たちを南朝側に連行しました。これにより、「三上皇(光厳・光明・崇光)」が吉野へ移され、北朝は一時的に天皇不在となりました。この行動は政治的に大きな意味を持ち、顕能の果たした役割は非常に大きかったといえます。また、この地に霧山城と阿坂城を築いて南朝の拠点として少数で伊勢を守り抜きました。晩年は軍事活動が減り、国司としての地方統治に専念しました。この地は山地で、土地が肥沃ではありませんでしたが、顕能は棚田や用水路の整備をして農地を拡大し、農業の生産性を向上させました。また、過度な年貢を取りすぎないよう、農民との信頼関係を築くため、適切な年貢の設定を行ない、農民の支持を得て、伊勢での統治が安定しました。また、父・親房ゆずりの文化的な教養を持つ北畠顕能は和歌を愛し、『新葉和歌集』に18首が収録されるほどの歌人で、伊勢においても学問と文化の振興を行なったといわれます。教育の場を提供し、地元の子供たちに学問を教えることで、地域社会の知識層を育成したといわれ、伊勢では和歌や連歌が盛んになったといわれています。伊勢の国司としての誇りと平和への願いが込められた「いかにして伊勢の浜荻吹く風のおさまりにきと四方に知らせん」は名歌として知られています。さらに、顕能は地元の神社や寺院を保護し、伊勢国一宮の椿大神社(つばきおおかみやしろ)の祭祀を支援、伊勢神宮とのつながりも深め、在地の白山信仰にも敬意を払い、地域の信仰を支えました。~父・北畠親房~鎌倉幕府が倒れたあとの「建武の新政」時代に活躍した朝廷側の理論的ブレーンで、後醍醐天皇の信頼を得て、南朝の正統性を説きました。『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』は代表作として知られ、後世の儒学者・国学者にも影響を与えて、明治時代の国家づくりにも参考になった書です。その内容は神代からの天皇系譜をたどり、「万世一系」を強調し、鎌倉幕府や足利尊氏のような「武士による政治の否定です。親房はこの書を、南朝がボロボロになってる時期に、敵に追われながら熊野の山中で執筆しました。逃げながらも、未来に希望を託した書物です。『神皇正統記』の名言「政(まつりごと)は道を以て本とす」欲や武力で支配する政治は本物ではなく、徳と理で治めるべきだという強い主張です。「世は移れども、道は変わらず」時代は変わっても、正しい道理、倫理は変わらない。混乱の南北朝時代にあっても、「筋の通った道徳こそが未来を開く」と信じた親房の信念です。「国を思ふは、家を思ふがごとし」
三重県津市美杉町上多気にあります。「多気北畠氏城館跡」にあり、初代伊勢国司として南朝として奮戦した北畠顕能が主祭神です。顕能の父は神皇正統記で有名な北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)。その城館跡の庭園も見事です。(拝観には別途300円)南北朝時代の事、戦国期の織田信長に滅ぼされた悲劇、現代に通ずる天皇家を大切にする日本人の心、多くの学びと深い感慨に触れる事ができました。
三重県津市美杉町 北畠神社⛩️さんを、2024年11月30日(土曜日)の早朝に訪れました。綺麗な鳥居⛩️と、紅葉🍁を撮影することができました✨R166から、山中を抜けるルートでした~!まだ時間が早いからか、対向車もあまりなく、20分程で通過しました✨道の駅美杉さんで、休憩してから、伺いました。時間が早いからか、駐車場は自分しかいない感じでしたが、昼頃には、混むと思います。また、訪れたいと思います。
旧別格官幣社。三重県内の官社で最もアクセスが難しく、津市とはいっても同市の市街地から車で1時間半程かかります。朝早くに到着して境内を歩いていると、途中で神社の方がいらっしゃって遠方からの参拝を労って下さりました。とても優しく話しやすい方で、神社周辺の見所なども教えていただけました。写真は7月28日のものです。山間部にあり、豊かな自然と朱塗りの建築の色合いが互いの魅力を引き立てているようです。同じく建武中興十五社である吉野神宮(奈良県吉野郡吉野町)の遙拝所もありました。庭園には社務所で入園料を支払う事で入園できます。維持・管理には費用がかかるものなので、これは必要だと思います。生い茂る木々と絨毯のようにむした苔の緑が美しく、池にはたくさんの鯉が泳いでいます。普段の参拝客は少なく、静かな場所が好きな方には特におすすめです。稀ではありますが、津市西部ではツキノワグマが目撃される事があるので念のため頭に入れておいて下さい。
続100名城 多気北畠氏城館スタンプ押印の為、参詣。スタンプは社務所に置いてあります。北畠神社横JA駐車場に車は停めさせていただきました。花将軍北畠顕家公の銅像有。300円社務所で支払えば北畠氏館跡庭園を観れます。素晴らしい日本庭園なのでお時間ある方は是非!
こちらの境内を中心に多気北畠氏城館跡として国指定史跡にもなっている。伊勢の国司、大名であった北畠氏は南北朝時代から戦国時代にかけて栄華を極め、8代当主北畠具教(きたばたけとものり)は従三位権中納言に叙任されている(他では秀吉政権下の弟秀長や五大老前田利家)など朝廷にも相当大きな影響力を与えていた。日本最古とされる石垣や戦国時代では屈指と言われる観賞用庭園、南朝側のスーパースター、花将軍 北畠顕家(美男子で若くして亡くなったとはいえ大河ドラマ太平記では若かりしき頃、元F1レーサー ジャン・アレジ夫人後藤久美子が演じた)像など境内にも見処多数。ちなみに有事の際は詰め城として西側の霧山城があり南端の鳥居をくぐった左側から登頂出来る。社務所で頂ける御城印は霧山城のもの。さらには続百名城スタンプもこちら。ちなみに神社自体は1643年に北畠八幡宮として創建されたのが始まりで、後に伊勢北畠家としての祖と扱われる北畠顕能(きたばたけあきよし)が御祭神となった。
津市の山間部、交差点に案内板、右折すると赤松塚手前のJA前に手頃な駐車場あり境内直ぐに雪姫伝説の料亭、北畠庭園、奥に日本最初の石垣と北畠顕家像、留魂社とありますが、当時の北畠氏の史跡は矢張り標高400mの隣の山を40分登らないとですが時間なく社務所はお守り等売っていてデザインが工夫されているせいか高目一般服の民家の人が販売兼落葉清掃、忙しそうなので負担にならない様に。
| 名前 |
北畠神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
059-275-0615 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 9:00~16:30 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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三重県津市美杉町にあります。丁度イチョウの季節でしたので、境内に生えているイチョウの木を堪能させていただきました。