古の地を守る、忍坂坐生根神社。
忍坂坐生根神社の特徴
敷地内にある特徴的な階段が印象的です、訪れる価値があります。
創建時期が不詳ながら、古代の名神大社としての歴史があります。
地元住民に親しまれ、思い出深い神社として愛されています。
後背の宮山を御神体として古い祭祀が今に残る #忍坂坐生根神社。ヤマト創世の歴史が積み重なった地の古社 #意柴沙加宮 #継体天皇 #息長氏 #額田部氏 #ものづくりとことだまの国2023年4月9日。
延期式内社で歴史のある由緒正しい神社ですが後の山自身が御神体であり自然崇拝です。忍阪の地の産土神なんでしょう。令和参年に改修されたようで拝殿前の鳥居は綺麗です。地域の方々が大切に扱われていると思います。綺麗に整備されていて公園のような雰囲気です。神武東征では土蜘と呼ばれる八十建がいて大和朝廷に対立した土着民が居たとされた場所。歴史的にも神話的にも面白い場所です。
ご神体はお山だとか。拝殿の北側にも聖地のような場所があり、しめ縄で結界が張られています。自然を神とする考え方が、忍坂の方々の生活に生かされているのだと思いました。素敵なこの街道の集落がいつまでもこのままであってほしいと願うばかりです。
夕方に訪問しました♥️社殿周りを改築中です♥️丁度、区長さん、灯明係の方が来られましたので、由来などをお聞きしました♥️
創建時期は不詳だが、『大和国正税帳』の730年、『新抄格勅符抄』の806年に名前が見えることから、さらに古い創建と考えられている延喜式神名帳の名神大社で旧村社。少彦名神と額田部氏の祖・天津彦根命を祭神とする忍坂の氏神さまとして、厚い信仰に支えられ、今も忍坂住民が交代で御灯明をあげて、お祀りしている。本殿は設けられておらず、背後の山(外鎌山の一部にあたる宮山)を御神体とし、拝殿の北側に神が鎮座する「石神さま」を十数個並べた磐座があり、古い信仰の形を今に伝える。21/03/01、外鎌山を下ってきて、お詣りした。
境内へ入る階段が特徴的です。
私個人的には子供の頃良く遊びました。母親の生れ育った実家の目の前です。お社は小さいけど、今は何もございませんが一度行かれる価値は有ります。10分位歩けば石位寺や御陵さんも有ります。忍阪の旧道には歴史地区に指定されてます。
地元の神社ですから、満点です‼️
古のこの地を守っておられる氏神様。ひっそりとした佇まい。御神体はお山ということで、拝殿からお詣りします。
| 名前 |
忍坂坐生根神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33898 |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
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忍坂坐生根神社(おしさかにますいくねじんじゃ)。奈良県桜井市忍坂。式内社(大)、旧村社。【祭神】少彦名神資料によると、当社は本殿を持たず、背後の「忍坂山(外鎌山)」を神体山とし、拝殿後方には自然石数十個を並べて磐座としています石神は、普通21個といわれるが、昭和50年12月の調査では19個を確認した。形状は大小あるが、平べづたい丸石で、幅30~50cm、地上の高さ10~40cmの花崗岩。加工の形跡はない。当地の地名「忍阪(おっさか)」は『倭名類聚抄』大和国城上郡の「忍坂郷」の遺称であるのみならず、和歌山県橋本市隅田の「隅田八幡宮」が所蔵する国宝「人物画像鏡」(五~六世紀頃の製作)に男弟王なる人物が「意柴沙加宮」にいた旨の銘文があり、銘文の解釈は定まっていないものの極めて古い地名であることは間違いありません。当社の創建・由緒は詳らかでありません。天平二年(730年)の正倉院文書『大倭国正税帳』に記載されている「生根神」は当社とされており、少なくともこの頃には当社は存在していたようです。一方、大同三年(808年)に成立した日本最古の医学書である『大同類聚方』には「以久禰(イクネ)薬」なる薬が登載されており、これによれば当社に伝わるものであり額田部連等の上奏したもので、妊娠した女性の不調に用いるものであるとあります。また同書には「志紀乃加美(シキノカミ)薬」なる薬も登載されており、これも当社に伝わるもので、咳が激しく胸や肩が痛む際に用いるものであると記されています。このように当社では複数の薬の製法が伝わっていたようで、現在の当社の御祭神が「少彦名神」であるのも医薬の神として祀られたものであると思われます。忍坂には天智天皇・天武天皇ら父の息長足広額天皇(舒明天皇)の墳墓とされる古墳がある。 すなわち息長氏の大和での拠点のひとつであった。 西側に神武天皇伝説の鳥見霊畤の候補の一つである鳥見山があり、その東が安倍であり、神功皇后の磐余宮の伝承もある地である。 忍坂は安倍地域の後背地としての墳墓の地域であったと言えるのかも知れない。隠り国にふさわしい長谷の地に見える。とあります。