古事記ゆかりの泣沢女神。
畝尾都多本神社の特徴
鳴沢女神が主祭神として祀られた神社です。
万葉歌碑が境内にあり、歴史的意義を持っています。
高市皇子の病回復を祈願した由緒ある神社です。
由緒がある神社だったようです。暗くてわからなかった^^;
伊奘冉の神避りで伊弉諾尊の涙から誕生した泣沢女神が祀られています。とても静かな場所で観光客も殆どいないので落ち着きます。鎮守の杜も鬱蒼と木々に覆われすぎておらず適度に陽がさすのが良いですね。駐車場はなく、研究所に駐車するか先のトイレ横に駐車するしか無いです。
駐車場やトイレはありませんが、お隣の奈良文化財研究所にトイレや駐車場(入館料無料や駐車場無料)があります。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内にあります。
古事記上巻、2500年前に座するとあります。駐車場は有りませんが、奈良文化財研究所が隣接していますのでそちらに駐車(無料)頂き奈良の文化財に触れて頂き、その足でお参り頂ければと思います。大和八木からバスも出ています。
御祭神:泣沢女神創建は不明ですが、万葉集の一節に持統天皇10年(696)に松隈女王が再生の神に神酒を捧げ、高市皇子の延命を祈ったのに、蘇ることはなかったという記しがあることから、飛鳥時代には既に鎮座していたと思われます。泣沢女神(ナキサワメノカミ)を祀る神社は多くありません。泣沢女神は亡くなった伊奘冉命を伊奘諾命が悲しみ、涙した中から生まれた神とされ、当社の御神体は井戸と言い伝えられています。拝:2020/07/19
式内社 大和國十市郡 畝尾都多本神社です天武天皇の皇子 政務に努めた高市皇子 その后(檜隈女王)が皇子の病回復を願った神社 檜隈女王と詠んだといわれる万葉歌碑が境内にある(写真あり)「哭澤(なきさわ)の神社(もり)に神酒(みわす)すゑ祈れども わが王(おおきみ)は 高日(たかひ)知らしぬ」
畝尾都多本神社うねおつたもとじんじゃt奈良県橿原市木之本町114祭神t泣沢女神古事記にはイザナミが火の神であるカグツチ(迦具土神)を産むと陰部に火傷を負って亡くなる私の妻をただ一人の子に代えようとは思いもしなかったとイザナギが云って、イザナミの枕元に腹這いになって泣き悲しんだ時その涙から成り出でた神は、香具山の麓の丘の上におられるそれが泣沢女神式内社(小)神体t井戸末社の八幡神社が目立つ為、まちがいなきように諸情報駐車場なしトイレなし。
藤原京以来鎮座。
| 名前 |
畝尾都多本神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0744-21-1115 |
| HP |
https://www.city.kashihara.nara.jp/soshiki/1021/1/2/3/3915.html |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)。奈良県橿原市木之本町。式内社(小)、旧村社。【祭神】啼沢女命(ナキサワメノミコト)資料によると、天香山西麓、奈良国立文化財研究所の北に隣接して鎮座する。この地を泣沢の森と称し、古事記上巻に、伊邪那美神が神避られたことを伊邪那岐神が悲まれた時のこととして「坐香山之畝尾木本、名泣澤女神」とあり。万葉集にも記載あって万葉人達にとつて、この神社が感慨の場であつたことが知られる。創建年代等については不詳であるが、万葉集より持統10年(696年)には存在していたことが知られる。泣沢森の神霊を祭つたものであろう。式内社の研究の志賀剛氏は、上代には、この辺はじめじめしており、水荵[なぎ]が生えていたので、ナギ沢と言ったとの推測である。泣女は喪主に代わって泣き悲しむ女で、朝鮮半島などには現在もその風習が残っている。本殿はなく玉垣で囲まれた中の空井戸を御神体とする。板塀瓦葺(元は土塀であった)の神垣の中に、人頭大の自然石で積まれた内径136cmの古井泉が御神体になっている。かつて依代であったと思える玉だすきの切株がその手前に残され、太古の祭祀形態を偲ばせている。境内入口の正面には、八幡宮があり、そちらが本社のような位置関係である。とあります。