蘇我氏ゆかりの神社でお参り。
宗我坐宗我都比古神社の特徴
蘇我氏ゆかりの神社で、歴史あるお宮です。
初詣に最適な場所で、無料で拝観可能です。
近鉄真菅駅近く、アクセスが良好な神社です。
駐車場3台分日当たりの良い明るい神社です。
元旦の昼間にお参り。お参り時は賽銭箱の奥で巫女さんが舞をしてくれます。えと飴と長寿箸を頂きました。どんどもされていて暖かく懐かしい気分になりました。駐車場は3台のみ?のようです。
曽我町にある宗我社は蘇我馬子が創建した神社。延喜式神名帳に記載がある式内社です。おやっ三種類のソ(曽宗蘇)の文字がありますね。社伝では蘇我氏滅亡を哀れんだ持統天皇が創建とあるが怪しい。日本書紀を編纂した藤原不比等が、社伝も捏造した可能性があると思います。持統天皇が創建って二人の関係からして??? 五郡神社記では蘇我馬子が神殿を造営とあります。小さな神社ですが雰囲気があり、鳥居から拝殿までの参道が直線で良いね。境内は清掃が行き届いており地元民に愛されていると感じました。三台停めれる無料駐車場があります。
近鉄真菅駅から西へ。3回目の訪れ。5年くらい前は不在だったので、御朱印をいただけなかったが、今回は、事前に電話をして参拝致しました。書置きの御朱印や冊子もいただき、その節はありがとうございました。
やはりGoogleMapで見つけた蘇我氏をお祀りするお宮さまです。最近、神社関連の本で読んだばかりですが、歴史は為政者の都合の良いように書き換えられてきたことも、成程と思います。曽我の地名からも解る通り、近在の方々に大切に守られてきたお宮さまにお詣りにでき、ありがっ様です。
近鉄大阪線真菅駅近くの神社。駐車場があまりないので徒歩又は自転車、バイクがオススメ。御朱印も頂けますよ!
急に奈良に行かなくちゃならなくなって、行ってきました橿原市。橿原はこれで2回目?ですが、今回の目的は宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ)神社。昔保昌派がこの地で鍛刀したという。今となっては当然当時の面影はありませんが、歴史好きのおじい様を発見し、いろいろと謂れを教えていただきました。「古代史、面白いよ~!」って全力で薦められた。まぁ、並みの人よりは知っているつもりだったが、全然ついていけなかった。お名前伺っておけばよかった。有名人だったりして。古代史の。
写真が好きで前から気になってたのですが、昨日朝から行きました。朝からいい天気で雲が良かったです。
神社の入口に駐車場があります。グーグルナビだと狭い道に案内されるので引き返しました。本殿は髙いコンクリート塀に囲まれているので、屋根の部分しか見えません。境内には八大夫稲荷神社があります。
| 名前 |
宗我坐宗我都比古神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0744-22-6058 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)。奈良県橿原市曽我町。式内社(並大)二座、旧社格は村社。通称を「入鹿宮(いるかのみや)」とも。古代豪族の蘇我氏に関係する神社。主祭神:曾我都比古神(そがつひこのかみ、宗我都比古神)、曾我都比売神(そがつひめのかみ、宗我都比売神)。資料によると、宗我都比古神社の祭祀は、社名・神名に「ソガツヒコ(宗我都比古)」と見えることから、古代豪族の蘇我氏(そがうじ)に関係すると考えられている。蘇我氏は著名な氏族であるが、その本拠地(本貫)は明らかとなっておらず、宗我都比古神社の鎮座地である大和国高市郡曾我(橿原市曽我町一帯)に比定する説のほか、大和国葛上郡(御所市一帯)に比定する説、河内国石川郡(大阪府富田林市東半・南河内郡一帯)に比定する説の3説が知られる。そのうち1説目(当地)は、地名「曾我」や宗我都比古神社の存在、および『紀氏家牒』で蘇我石河宿禰について「家二大和国高市県蘇我里一」とあることから、特に有力視される地域になる。前述の通り、『延喜式』神名帳では祭神を2座とするが、これについて『五郡神社記』では武内宿禰・石川宿禰の2人にあて、元禄年間(1688-1704年)頃の社記では彦太忍信命・石河宿禰の2人にあてている。これらは、いずれも蘇我氏の遠祖とされる人物になる。それに対して、現在では祭神をソガツヒコ・ソガツヒメの2神とし、その木造神像2体を神体に祀る。神名帳では「地名 + つ + ひこ/ひめ」の2座とする神社の記載は多く、宗我都比古神社の場合にもそれらの例と同様に、在地神であるソガツヒコ・ソガツヒメの2神が祭神であったと考えるのが妥当とされる。創建は不詳。『五郡神社記』では、推古天皇(在位:593-628年)の時に、蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建したとする。一方で社伝では、持統天皇(在位:690-697年)が蘇我氏の滅亡をあわれみ、蘇我倉山田石川麻呂の次男である徳永内供には紀氏を継がせるとともに、内供の子の永末には祖神を祀るための土地を与えて社務・耕作を行わせたことをもって創建とする。なお宗我都比古神社一帯は、弥生時代から古墳時代前期の遺構である中曾司遺跡が広がることが知られ、境内付近でも多くの遺物の出土が見られている。とあります。皇別の蘇我氏にまつわる神社で、延喜式神名帳(927)大社に祀られている神社ですが、『日本三代実録』で神階が正五位下まで、近代社格制度において村社レベルの扱いと、大和の地でさび付いてしまっている様な印象です。