太安万侶ゆかりの古宮へ。
多坐弥志理都比古神社の特徴
古事記を編纂した太安万侶ゆかりの神社です。
境内は広く綺麗に整備され、落ち着いた雰囲気です。
参拝者を楽しませるクレープの販売が行われています。
奈良県立医大のそばにある古いお宮さん。古事記の太安万侶さんをお祀りされてるそう。
御祭神 神倭磐余彦尊、神八井耳命、神沼河耳命、姫御神境内社 熊野神社、住吉神社、春日神社、石上神社、竈神社、八幡神社できれば、境外摂社の姫皇子神社、皇子神命神社、小杜神社、屋就神命神社(いずれも式内社)も参拝されることをお勧めします。
古事記編纂で知られる太安万侶ゆかりの神社。正一位と格式がありながらも、周囲に広がるのどかな田園風景と一体化していて穏やかなお社です。御朱印を頂いた際、多氏の由来や茨城にゆかりの神社があるなど丁寧なお話を伺えました。近くには見応えのある古事記編纂の大きな石碑もあります。
古事記を編纂した太安万侶の末裔が宮司を務める神社と知りお参りさせて頂きました。
境内は広く綺麗に整備されている神社です。何しろトイレが新しくて綺麗になっています。少しナビから離れたところ丹生川上神に本社があるのでわかり辛いですが、無料駐車場もしっかりとあります。
神社は素晴らしい地理環境にあります。東に三輪山、南に畝傍山、飛鳥川と寺川から水を得られる広大な平野。奈良の山並みがぐるりと囲んでいます。西に行けばすぐに河内の国で海に出られます。多神社や東西にある神社、神宮寺、多集落などを歩いていると昔の姿が見えるようです。聖徳太子はこの神社には寄らなかったでしょう。この神社を迂回して橘から斑鳩を行き来していたと思います。作物がたくさん収穫できる場所の「多」、何でも御知り給う「弥志理都」、「比古」は神だと勝手に解釈できました。今でも奈良平野の中心ですが、人家が少なかった往古はさらに大和の中心だったのだと思います。飛鳥京も藤原京も平城京も、この好立地に入れなかったのは、多一族の祖先(おそらく弥生人)がこの地を支配していたからだと思います。神社が多の集落から少し離れているのは、明らかに支配者がここに居たということです。集落の人はこの神社の祖先を敬ってもいたし恐れもしていたのでしょう。最後に立派な駐車場とシャワー付きのトイレ借用させていただきました。有難うございました。
今年は、軽自動車でのクレープ類の販売もあり、年々活気が出て、参拝者も楽しめるようになってます。地元の活性化にも繋がり、とても良い事だと思います。
とても静かで落ち着く神社でした。由緒正しい神社なのにお参りする方も無く少し寂しい感じがしました。
おおにますみしりつひこ神社の宮司さんは太安万侶の御子孫です★おおの やすまろ は、古事記を記した人物★神武天皇は橿原神宮に祀られています★
| 名前 |
多坐弥志理都比古神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0744-33-2155 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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多坐弥志理都比古神社(多坐彌志理都比古神社、おおにいますみしりつひこじんじゃ)。奈良県磯城郡田原本町多。式内社(名神大)二座、旧県社。一般には多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、多社、多坐神社、太社、意富(おお)社とも書かれる。社号標には「多㘴彌志理都比古神社」と記す。主祭神:第一社 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)第二社 神八井耳命(神武天皇皇子)第三社 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟)第四社 姫御神(玉依姫命:神八井耳命の祖母)このほかに、『古事記』を編纂した太安万侶(おお の やすまろ)も祀られている。当地は多氏の拠点であり、多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられる。元文2年(1737年)の『多大明神社記』では現在の四座になっているが、明治時代の『神社明細帳』では本殿の第一社・第四社は摂社の扱いとなっており、主祭神は神八井耳命・神沼河耳命の二座としている(『延喜式神名帳』には「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記されている)。社名の通りであれば弥志理都比古(みしりつひこ)を祀る神社ということになるが、これは神八井耳命のこととされる。神武天皇の長子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。とあります。資料によると、記紀神話には、「神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る」とあり、それが当社の始まりであるとしている。綏靖天皇2年(BC35年推定)、神八井耳命は春日県(後の十市県)に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇を司り、春日県主の遠祖・大日諸神を祭祀者として奉祀せしめた。崇神天皇7年(AD222年推定)、その神祠を改造し、天津日瓊玉命・天璽鏡劔神を祈賽したと伝える。『延喜式神名帳』では「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』では神階正一位となっており、「正一位勲一等多大明神」の扁額が一の鳥居及び二の鳥居に掲げられている。一の鳥居は神社から約800m東の近鉄橿原線の線路を越えた寺川沿いにある。古くは春日宮と称し、現在の社領地は約1万m2余を有するが、『大和志料』によると、天文21年(1552年)、当地の領主・十市遠勝より周囲6町四方の土地(約42万m2)を寄進されたとあり、四方に鳥居があったという。明治時代に多村の郷社に列格し、1923年(大正12年)に県社に昇格した。本殿の後方に「神武塚」と呼ばれる小丘があり、古代の祭祀場もしくは古墳と考えられている。1972年(昭和47年)、当社裏の飛鳥川築堤工事中、境内より縄文時代から古墳時代の遺跡(多遺跡)が発見された。とあります。