奥深き歴史の穴師坐神社。
大兵主神社(穴師坐兵主神社)の特徴
古い謂れのある神社で、延喜式名神大社とされているのが魅力です。
倭姫命が祀られた聖地で、周囲には皇居跡や天皇陵があります。
相撲神社の奥に位置し、静かな環境での訪問が心地よいです。
県立図書情報館 千田稔館長によれば本来の祭神は、新羅王の子アメノヒボコとしている。半島に移りまた日本に戻ってきた神とも言われており、大神神社に祀られている大物主に劣らぬ偉大な神で、建国の一翼を担ったであろう。末裔には神功皇后が登場する。巻向山の中腹に静かに鎮座し、大和の国を見守っている。社域は大きくはないが氏子からの尊崇が感じられ、威厳も感じる。
まさに穴場のパワースポットといった感じ。紅葉が素晴らしかったです。歴史の重みも感じました。ただ途中の案内看板もほとんどなく辿り着くのに苦労しました。このまま寂れるのは勿体ないので色々試してみて欲しいです。
平安時代に編さんされた神名帳「延喜式」に掲載されている神社、いわゆる式内社(名神大社)です。創建年は不明ですが、第十一代 垂仁天皇の時代とも言われているそうです。主祭神である兵主神は食べ物を司る神様、御食津神(みけつかみ)であらせられ、剣をご神体とするそうです。神社へは若干アクセスしづらいですが、静かで非常に綺麗な神社でした。境内の清掃もとても行き届いて、厳かな気持ちで参拝できました。
細い道の奥まったところにひっそりと佇む神社です。少し寂れていますが本殿・拝殿は立派な建物です。もっと賑わっても良さげに思いますが檜原神社などに比べると知名度が・・・。とても親切な神主さん宅でご朱印を頂きました。
桜井市穴師の奥に鎮座する古社で、元は穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の三社が応仁の乱の頃、焼失したため、穴師大兵主神社の旧社地に合祀され、鎮座している旧県社。創建ははっきりしないが、桜井市の市史によれば、崇神天皇のころまで遡るという。穴師坐兵主神社の祭神『兵主神』は、中殿に祀られ、鏡をご神体としている。もとは現在の竜王山・穴師山・巻向山に比定される「弓月岳」に祀られていたとされる。巻向坐若御魂神社の祭神『若御魂神』は稲田姫命のことで、右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。もとは巻向山中に祀られていた。これらの二社は、『正倉院文書』の730年に祭祀を行った記録が残っている。穴師大兵主神社は、祭神の『大兵主神』を左社に祀り、剣をご神体としている。21/11/05、参拝した。とても立派な拝殿と本殿があり、見るからに古社、厳かな感じがした。作業から戻ってこられたところ、お疲れのなか、神主さんから丁寧に押されたご朱印を頂いた。
〔ホツマツタヘ〕―秘められた日本古代史( 松本善之助著、毎日新聞社 )を読んで一度来てみたいと思ってました。古代、猿田彦(役職はオオモノヌシ、椿大神社に祀られている)の子孫であるオオタタネコ(役職はオオモノヌシ)が祀られています。「穴師」は「他無し」で他に無く秀でて「坐」おられると云う意味で、「兵主」は「つわものぬし」と読みます。纏向遺跡が近いのですね。また来たいです。
相撲神社を少し山のほうに5分ほど歩いていくと穴師坐兵主神社につきます。相撲神社のところに穴師神社という鳥居が駐車場横にあったのはそのためですね。なんかトトロの森に来たような感じの神社でした。ただ、御朱印は神主さんのご自宅に行かないといけないのですがチャイムを押しても不在だったみたいで、御朱印はいただけませんでした。相撲神社の御朱印もいただけるそうです。
延喜式内の名神大社です。他の神社に行く100倍のご利益がありますが、まったく商売ケがありません。壊れた社務所の屋根を見ると悲しくなります。宣伝はしなくていいけれど、アクセスだけは確保してあげてほしい。国の宝ですから。
大和川から始まる「山辺の道」にある神社です。すぐ近くに垂仁天皇と景行天皇の皇居跡があります。
名前 |
大兵主神社(穴師坐兵主神社) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0744-42-6420 |
住所 |
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評価 |
4.2 |
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古い謂れのある神社で、延喜式名神大社ということですが、交通が不便で訪れる人は少ないと思います。山辺の道ハイキングの際におまいりするのがいいかとお思います。なお付近にトイレはありませんのでご注意ください。(山の下の方約500mに公衆トイレあり)