静かな東弓削神社で心落ち着く参拝。
弓削神社(東弓削)の特徴
東弓削神社は延喜式内社で、由緒ある存在です。
弓削氏の祖神や物部氏の祖神を祀る霊験あらたかな神社です。
河内国の有名な神社として、地域の人々に親しまれています。
小学生の時に遊んだ記憶が蘇ってきました。公園が隣にあります^_^
古代からの河内では⛩️枚岡神社⛩️恩智神社に次ぐ格式の有る神社と言われている。物部氏の祖神で弓削氏の本拠でした。延喜式の神名帳(927年)には式内社が弓削に二座と記されているそうです。何故二社なのか解らないそうです。実際志紀駅にもう一つの弓削神社が有る尚ここより東へ300mには古宮と言う小字が有り。そこが鎮座の説が有る。
駅の近くだが静かなところで心落ち着いて参拝出来る。立派なお社で徳のある神様が祀られているのだなあと思いました。
小さいけど河内大社と冠して居ますね。拝殿の両側に大きな銀杏が未だ見頃です。2022/11/28現在。やはりここら辺一帯は少なくとも、更に西の志紀駅の向こう側の弓削神社、そして北寄りの由義寺跡まで大きな範囲で物部氏、弓削氏の領地だったと思われる。遠いむかしに想いを馳せるのも良い。
神名帳の河内國若江郡の項に記載のある式内社。同名の神社がわずか数百メートルの距離にあり、いずれも論社。JR大和路線志紀駅のすぐ近くに鎮座。当社は神名帳には「二座 大 月次相嘗新嘗」と記載のある式内大社で、河内國では枚岡神社・恩智神社に次ぐ大社。駅の反対側にも弓削神社はあるが、当社は旧志紀郡の東弓削村鎮座であり、駅の反対側のほうは旧若江郡の西弓削村鎮座である。旧大和川の氾濫で、当社も遷座した可能性があり、元々の鎮座地の特定や二社に分かれた経緯などはよくわからない。ただ、分村することで、鎮守を分祀することはとてもよくあることなので、東弓削村と西弓削村に分かれた江戸時代に二社となった可能性があると思う。さて、当社はこの付近を本貫地とする弓削氏が祖神を祀った神社である。日本三代実録には弓削神と記載もある。当社の現在の御祭神は饒速日命・弥加布都命・宇麻志麻治命・天日鷲命・比古左自彦命などとなっている。饒速日命と宇麻志麻治命は物部氏の祖神、天日鷲命は忌部氏の祖神だが、弓削氏の一部も祖神としている。弥加布都命は日本三代実録に「弥加布都命神」と記載のある河内國の神社(所在不明社)で、もしかすると当社に合祀されたのかもしれない。古事記には甕布都神として登場するタケミカヅチが授けた布都御魂の別名。比古左自彦命も日本三代実録に記載がある河内の式外社だが、所在が不明で、同様に当社に合祀された可能性もあるのではないか。ちなみに日本三代実録には比古左自布都命神と記載があり、物部氏関連と思われる。
神々の神々:ラオスリミンミジアブドゥミンピンダとジミンUアサシマジミンテンリワシミンコザユヒコミン保武氏レイワ8月11日2 San Miao(原文)御祭神 : 饒速日命 弥加布都命 品陀和気命 宇麻志麻治命 天日鷲命 比古左自彦命物部一族 弓削連令和2年8月11日 参拝。
弓削神社は延喜式に神様二座で一社であるとあるので、この東の弓削神社と線路を越えて鎮座する西の弓削神社で本来一社となるのかしら。こちらの弓削神社は、社務所が無くて無人になっているが、拝殿が新しくなっているで、氏子さんがしっかりお守りしているのが感じられます。
主の犠牲:ラオの速度、人生、ミジアブ、人生、ピントと戒め、ゆうマジ、馬志明、生涯の人生、古代ズオジーヤンより(原文)主祭神:饒速日命 弥加布都命 品陀和気命 宇麻志麻治命 天日鷲命 比古左自彦命。
弓削道鏡は、祖先であるニギハヤヒをちゃんとお祀りしたかっただけなんじゃないかなぁ。道鏡の想いが感じられた氣がした。
| 名前 |
弓削神社(東弓削) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
072-943-7059 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
https://osaka-jinjacho.jp/funai_jinja/dai6shibu/yao-city/06053yugejinja.html |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
弓削神社(ゆげじんじゃ)東弓削町。大阪府八尾市東弓削町。式内社(並大)二座論社、旧村社。【祭神】饒速日命 宇麻志摩治命 彌加布都命 天日鷲命 品陀和気命 比古佐自彦命 菅原道真【関係氏族】弓削氏:物部氏に属して弓などの武器の製造にたづさわる弓削部。資料によると、弓削氏の祖神を祀る。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本拠とする豪族で、弓などの武器の製造にたづさわる弓削部を支配する伴造であった。当社は現在地の小字が元河原であるので、明らかに移動していることがわかる。東方約300mに、小字古宮というところがある。その側に古屋敷、大門、堂後などの小字もある。おそらくこの付近に、もとの集落や神社、寺院があつたのであろう。ここにあったときは一社でその後二社に分かれたのか、このときすでに分かれていたのかは不詳。いつの時か大和川の大氾濫で、もとの弓削村は押し流され、住民の一部は川の西へ移動、また川東の人も村を移動させたことであろ。このため弓削村・東弓削村という川をへだてた二村となり、神社も旧位置から離れて、二社となつたのかもしれない。とあります。